4/20説教「主イエスは生きておられる」

はじめに
イースターは喜びの日です。初代教会のキリスト者たちにとって、キリストの復活のメッセージは、死と罪からの解放という意味と共に、新しい時代がここから始まったという、歴史の未来に向かって、新しい展望と希望とを告げる告知として受け取られてきたのです。そして復活されたキリストは教会の頭として、聖霊を通して今も生きておられるのです。そのことを今日も私たちは洗礼式を通して知ることができたことは嬉しいことです。今朝はルカによる福音書24章1~12節のみ言葉から主イエス・キリストの復活の喜びのメッセージを聴きたいと思います。

墓へ行った婦人たち
24章の1節は「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」となっています。この文には「だれが」という主語がありません。主語は23章の終わりの56節後半の「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」に示されている、「婦人たち」です。つまり週の初めの日の明け方早くに墓に行ったのは、「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」です。その名前は今朝の箇所の10節に記されています。「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」です。これらの女性たちは、主イエスがガリラヤで宣べ伝えておられた頃から従っており、主イエスと弟子たちの一行に奉仕していたのです。そのことはこの福音書の8章の初めの所に語られていました。その婦人たちが、主イエスと共にエルサレムにまで来ており、そして主イエスの十字架の死を、23章49節によれば「遠くに立って」見ており、そしてその埋葬を見届けたのです。56節には彼女らが香料と香油を準備したとありました。安息日が始まろうとしていたので急いで埋葬された主イエスの遺体にそれらを塗り、もう一度丁寧に埋葬しようとして、彼女らは安息日の明けた週の初めの日の明け方早く、主イエスの墓に行ったのです。

あの方は、ここにはおられない
すると、墓の入り口を塞いでいた石がわきに転がしてあり、墓の中に主イエスの遺体がありませんでした。彼女らは、愛する主イエスが十字架につけられて殺されてしまったという言い様のない悲しみ、嘆き、絶望の中でその前の一日、安息日を過ごしました。その絶望の中での唯一の慰めは、安息日が明けたらお墓へ行って、主イエスの遺体ともう一度対面し、丁寧に香料を塗ってさしあげることができる、主イエスへの最後の奉仕ができる、ということだったでしょう。だから、夜明けと共に、何をするよりも先に墓へと急いでやって来たのです。せめて主イエスの遺体に香料や香油を塗って丁重に葬りたい、そのことだけを慰めに、安息日が明けて朝になるのを待ちきれずにやって来たのに、主イエスのお体が見つからない、どこへ行ってしまったのか分からない、それは彼女たちにとって、絶望の上にさらに絶望を塗り重ねられるような出来事だったでしょう。イースターの朝は、この婦人たちが絶望の中で「途方に暮れた」、そのことから始まったのです。そして、途方に暮れている婦人たちの傍らに、輝く衣を着た二人の人、つまり天使が現れました。恐れて顔を伏せた婦人たちに、天使は語りかけました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。主イエスの復活が彼女らに告げられたのです。「あの方は、ここにはおられない」。「ここ」とは墓です。主イエスは、死者を埋葬する所である墓の中にはおられない、だから墓をいくら捜しても主イエスを見つけることはできない、なぜなら主イエスは復活して生きておられるからだ、そう天使は告げたのです。これは、主イエスの復活を告げる喜ばしい知らせです。けれども、この知らせを聞いた彼女たちはどうしたでしょうか。「主は復活なさった。ハレルヤ!」と喜んだでしょうか。そうは書かれていません。彼女たちにとってこの知らせは、ある意味でますます途方に暮れさせられるようなものだったのではないでしょうか。主イエスが十字架につけられて死んでしまったことは、全ての望みを奪われるような大きな悲しみでした。しかし彼女たちは、その悲しみの中に、先ほど申しましたように、主イエスの遺体に奉仕するという一つの慰めを、深い悲しみの中でのせめてもの喜びを見出していたのです。しかしこの朝墓に来てみたら、そこにあるはずの遺体が見つからない。どこに行ったのか分からない。そして告げられたのは、「あの方は、ここにはおられない」、ということです。誰かが遺体を盗み出して隠したのかもしれないのです。だから天使のお告げは彼女たちに、主イエスの復活の喜びを与えるどころか、むしろ主イエスの遺体までも失ったという悲しみと絶望を深め、ますます途方に暮れさせたのではないかと思うのです。

主イエスの言葉を思い出す
それゆえにこそ、6節後半から7節にかけての天使の言葉が語られたのでしょう。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。主イエスは既に三度にわたって、ご自分が長老、祭司長、律法学者たちによって捕えられ、殺され、三日目に復活することを予告しておられました。「まだガリラヤにおられたころ」に二度予告がなされたことは9章に語られていました。三度目はエルサレムへの旅の終り近く、18章31節以下です。弟子たちも婦人たちも、そのお言葉を聞いていたはずなのです。そのお言葉を思い出して、私たちの語ったことを信じなさい、と天使たちは言ったのです。
8節には、「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とあります。彼女らは天使の言葉によって、主イエスがご自分の死と復活を予告しておられたことを思い出したのです。
今、主イエスの十字架の死を目の当たりにし、そしてその遺体がなくなった、という現実の中で天使たちの語りかけを受けたことによって、主イエスのお言葉が彼女たちの心にもう一度よみがえって来た、それがこの「イエスの言葉を思い出した」ということでしょう。けれどもここで彼女たちが、受難と復活を語っておられた主イエスの言葉を思い出して、ああそうだったのだ、主イエスは十字架につけられて殺されるけれども、三日目に復活することになっていたのだ、その予告の通り、主は復活されたのだ、ということが分かり、納得し、復活の喜びに満たされたのかというと、ルカの書き方は微妙です。彼女たちが喜んだとは語られていません。9節には、主イエスの言葉を思い出した彼女たちが、十一人とほかの人たち、つまり主イエスの弟子たちや従ってきた人々の所へ行って「一部始終を知らせた」とあります。彼女らが知らせたのは、「主イエスは復活なさった」という喜びのメッセージではありませんでした。「一部始終」つまり彼女らが見聞きしたことの全てを知らせたのです。果して彼女たちは、主イエスの復活を信じていたのか、主は復活して今も生きておられる、という喜びに満たされていたのか、それは微妙です。おそらくは半信半疑だったのではないでしょうか。

私たちへの問いかけ
彼女たちがこの時どう思っていたかは実は問題ではありません。それはむしろ私たちの問題なのです。私たちは今、この婦人たちと同じ状況にいるのです。主イエスは復活して今も生きておられる、教会はそのことを告げ知らせています。教会がこうして日曜日に礼拝を守っているのは、この日曜日、つまり週の初めの日に主イエスが復活なさったことを記念してです。私たちは教会の礼拝において毎週、主イエスの十字架の死と、そして復活によって神が私たちのための救いのみ業を成し遂げて下さったことを聞いています。そしてそれが、旧約聖書の預言の言葉の成就実現であることも教えられています。今朝の旧約聖書の箇所として、イザヤ書第53章の11、12節が読まれました。多くの人の罪と過ちを担い、それらを背負って苦しみを受け、罪人の一人に数えられて死んだこの人こそが、罪人が正しい者とされ、罪の赦しを与えられるために執り成しをした救い主である、と語っているこの箇所は、まさに神の独り子である主イエスの十字架の死によって私たちの罪の赦しが与えられることを予告している言葉です。そして、「わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける」というのは、主イエスの復活を予告している言葉だとも言えます。この預言者が語っていたことが、主イエスにおいて実現したのです。私たちは礼拝においてそのことを告げ知らされています。そのみ言葉を聞いた私たちがどうするのか、主イエスの復活を信じて、その十字架の死と復活によって神が与えて下さる救いをいただいてその喜びにあずかっていくのか、それともなお、どうもよく分からない、半信半疑だ、という思いの中を歩み続けるのか、そのことが私たち一人一人に、今、問われているのです。

ところで、どの福音書にも、どのようにして主イエスが復活されたかについては、何も書かれていません。それは人間には全然わからないことです。わからないからその当時の人も書いていないし、もちろん2千年後の私たちにもわかるはずがないわけです。私たちに言い得るのは、この人たちと同じように、墓が空(から)であること、昔天使が告げたことが今、聖書を通して告げられているということ、そして私たちが今も復活のキリストに出会うことができるということです。神を知る方法は神の御言葉に従っていく以外にないのです。生きた方を死人の中にということは、思想や論理の世界の中に神を尋ねていってもわかるものではなく、信じない者にはわからないということである。主イエスの復活を知った女性たちから使徒たちが復活の話を聞いても、愚かな話のように思って、それを信じませんでした。まして2千年たった今、復活なんてと笑われても当然のことでしょう。しかし、それを信じていくことによって、私たちは、はじめて復活の主に出会えるのです。キリストの復活を信じるには、今、聖書を通して告げられている神の御言葉に従っていく以外にないのです。それは、今日の聖書箇所に登場する婦人たちが感じたことです。「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(6〜7節)と天使たちから言われて、婦人たちは主イエスの言葉を初めて思い出し、その言葉を信じて、使徒たちのもとに走ったのです。
復活なんて信じられないのが普通でしょう。けれども、聖書の御言葉を信じて、従って生きていくとき、私たちは復活した主イエスと出会うのです。その姿を見るのではありません。見ることと出会うことは違います。「生きておられる方」、生きて働く主イエスと、魂において、生き方において出会うのです。
だから、聖書の御言葉に“でも”と言わないようにしましょう。“聖書にはこう書かれている。でも‥‥”と言わない。それでは、信じて従うことにならないからです。社会の常識や自分の経験や価値観から“でも”と言いたくなる気持が確かにあるのですが、けれども、それは神の言葉を聞くのではなく、神に自分の考えを聞かせ、従わせようとしていることになります。それは信仰ではないのです。もちろん、聖書の言葉を自分の生活や生き方に100%、ストレートに反映させることは難しいかも知れません。けれども、そこで“でも”と言わない。聖書の言葉と自分の生活をすり合わせて、自分の生活に聖書の言葉を半分でも、10%でも、1%でも反映させる生き方を捜す、生かしていく具体的な方法を捜すのです。それが信じるということです。そして、それがまさに、自分の人生の中に「生きている方」を捜す、復活した主イエスを捜し当てることです。それができたら、それは私たち自身の復活になります。私たちの生きる力に、希望に、勇気に、感謝になるのでしょう。具体的に、御言葉を自分の生活に生かして行けたらどんなにすbらしいことでしょう。
ともすれば、私たちは、自分の人生に不満や愚痴ばかりを感じることがあるでしょう。あきらめや不信感、絶望ばかりを募らせることがあるでしょう。けれども、それでは“生ける屍(しかばね)”のようになってしまいます。“死者の生き方”です。
けれども、そんな私たちを、復活した主イエスの御言葉は励まします。慰めます。大切なことを示します。希望と勇気、感謝と愛を与えてくれるのです。私たちを“生きている者”に復活させます。自分の人生に喜びと意味を発見させるのです。私たちの人生に、たとえどんな過酷な苦しみであっても、人生に無駄は何もないのです。生かされていることが喜びです。どうにもならない事には、今なすことをなすしかないのです。ひたすら前を向き、苦しみの中で幸せを見いだそうとするしかないのです。私たちは何からその思いを得ることができるのか。主イエスの御言葉からです。御言葉に助けられて、信じて従って、生かされて、私たちの命に無駄なことは何もないと、感謝して生きていきたいと願います。イースターおめでとう!キリスト復活の真理を、御言葉の力を信じて、今日も明日も歩みたいと願うのです。お祈りします。

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