エマオ途上の弟子たち
先週の説教では主の復活の出来事から御言葉を聴きました。マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちが、主イエスが葬られた墓に行った。しかし、そこには遺体が見つからず、天使とおぼしき二人から主イエスの復活を告げられた。そこからみ言葉の恵みをいただきました。そして、ちょうどその日に、二人の弟子が、エルサレムを離れてエマオという村へ向かって歩いていた。という話が今朝のお話です。ということで、今朝与えられた御言葉は、エマオでの出来事です。早速、御言葉の恵みに与りましょう。
主イエスが葬られた墓に行った婦人たちも、墓が空であったことにただ驚き、それを聞いたペトロもその出来事にただ驚いていたのです。人々が復活した主イエスと出会い、その復活を本当に信じ、喜びに満たされたことは、24章13節以下、つまり今朝の箇所以降において語られているのです。主イエスの復活を信じ、その喜びに満たされるとは、どのようなことなのか、そのことが語られているのです。
さて13節には「ちょうどこの日」と書かれています。「この日」とは、主イエスの復活の日、主
イエスの十字架の死から三日目の週の初めの日ということです。二人の弟子が、エルサレムからエマオという村へ向かって歩いて行きました。二人の内の一人の名前はクレオパだったと18節にあります。22節を読むと、彼らは今朝主イエスの墓で起ったことの情報を既に知っています。婦人たちが墓に主イエスの体が無いことを知り、弟子たちに伝えた時、この二人もそこにいたということでしょう。その二人の弟子が、その後エルサレムを離れ、エマオという村へと向かったのです。何のためにエマオへ向かったのか、それは分かりません。大事なことは、彼らがエルサレムを離れようとしていた、ということです。
希望を打ち砕かれて
二人の弟子は、歩きながら「この一切の出来事について話し合って」いました。「この一切の出来事」それは19節以下に語られているように、「ナザレのイエスのこと」です。するとそこにいつのまにか一人の人が近づいて来て、一緒に歩き始めました。その人こそ、復活した主イエス・キリストご自身でした。共に歩いているその人は、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねました。すると「二人は暗い顔をして立ち止ま」りました。そのうちの一人クレオパは、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と言いました。随分失礼な言い方ですし、相手が主イエスご自身だったことを考えれば滑稽な言葉ですらあります。しかし主イエスは忍耐強く「どんなことですか」と、お尋ねになりました。この主イエスの問いに促されて彼らは、今何を論じ合っていたのか、自分たちがどのような気持ちでエルサレムを離れて行こうとしているのかを語っていったのです。二人の弟子は語りました。ナザレのイエスは、神からイスラエルの民に遣わされた預言者であり、行い、つまり御業においても、教えにおいても力ある方だった。彼らは主イエスのことをそのように捉えていました。それゆえに21節にあるように「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけて」いたのです。ところが彼らの期待は裏切られました。20節「それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです」。エマオへ向かう二人の弟子が今エルサレムから離れて行こうとしているのはそのためでした。主イエスに期待し、希望を抱いて従って来たエルサレムで、その希望を徹底的に打ち砕かれたのです。もうこのエルサレムにはいたくない、一刻も早くそこを離れ去りたい、それが彼らの思いなのでした。「主イエスは生きておられる」と聞かされても、彼らの希望はなお打ち砕かれたままです。イースターの日の昼日中にありながら、彼らは復活の喜びを得ておらず、まだ主イエスの受難による悲しみの中にいるのです。「二人は暗い顔をして立ち止まった」という17節の言葉がそれを象徴的に表しています。
私たちと共に歩まれる主
この二人の弟子は、主イエスが復活して生きておられることを信じることができず、その喜びを得ることができていないのです。それは私たちの姿ではないでしょうか。私たちも、あの婦人たちやこの弟子たちと同じように、聖書を通して、また教会の教えによって主イエスの復活を告げ知らされています。しかしそれを本当に確信をもって信じることができず、主イエスの復活の喜びに満たされることができず、主の復活を記念する日である日曜日の礼拝に集いながら、なお受難週の中を生きているようなことがあるのです。 けれども彼らはこの後、主イエスが復活して生きておられること、いつも共にいて下さることを確信するに至るのです。彼らの傍らに、復活なさった主イエスが近付き、共に歩いておられるのです。彼らは目が遮られていて分からなかったけれども、生きておられる主イエスが、既に共に歩んで下さっていたのです。復活して生きておられる主イエスは、その確信をまだ得ることができていない私たちのところに来て下さっており、既に共に歩いて下さっているのです。エマオへ向かった二人の弟子が主イエスに近づいたのではないのです。主イエスご自身が二人の弟子に近づいて来られたのです。そして、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」と記されています。信仰とは、私たちの方から近づいて主イエスに出会うのではなくて、主イエスの方から近づいて来られて私たちに出会ってくださるのだということ、そして主イエスは私たちと一緒に同行してくださるのだということ、そのことを受け入れることではないでしょうか。今朝のルカによる福音書の記事はそのことを私たちに示してくれているのです。
目が開け、イエスだと分かった
28節以下、そこには、夕方になって彼らがエマオの村に着いた時のことが語られています。道々聖書を語ってくれたあの旅人はなおも先へと歩み続けようとしていました。二人はその人に、もう夕方だから自分たちと一緒にこの村に泊まるように勧めました。「無理に引き止めたので」と29節に語られています。彼らはこの人の語る聖書の話をもっと聞きたかったのです。そのようにして彼ら三人は夕食の席に着きました。その席で、主イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」。するとその時、二人の目が開け、イエスだと分かったのです。彼らはこの時ようやく、主イエスが本当に復活して生きておられることを信じることができるようになったのです。そこには、主イエスの復活を信じる信仰がどのようにして得られるのかが示されています。つまり、彼らが主イエスの復活を信じたのは、「主イエスは復活して生きておられる」という知らせを聞いたことによってではありませんでした。主イエスの復活を信じる信仰は、主イエスと共に食事の席に着き、主イエスが分け与えて下さるパンをいただき、食する、その体験の中でこそ与えられるのです。主イエスの復活という奇跡も、頭の中で考えているだけではいつまでたっても本当に分かり、信じることはできません。生きておられる主イエスとの出会いと交わりの中でこそそれを信じることができるのです。そして、二人の弟子は主イエスを「無理に引き止めた」(29)のです。そして「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と懇願しました。主イエスは弟子たちの求めに応じられて「彼らと共に泊まるために、家に入ら」れました。
心が燃える体験
この食事が復活した主イエスとの出会いの場となるためには、備えが必要でした。主イエスご自身が聖書を説き明かして下さったこと、そのことがその備えとなったのです。そのことを振り返って彼らは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。聖書の説き明かしによって心が燃える体験をすること、言い換えれば、聖書の言葉が自分に対する神からの語りかけとして響いてくること、それが、主の招いて下さる食卓における主イエスとの出会いへの備えとなったのです。二人の弟子の心が燃えたのは、主イエスが、道々お話しになり、聖書を説き明かしてくださったからです。そうでなければ、二人の弟子の心が内に燃えることはなかったでしょう。もちろんこの時の聖書は旧約聖書ですが。聖書の説き明かしによって、主イエスが招いて下さる食卓における出会いへの備えがなされる、それは私たちの礼拝で言えば、説教と聖餐の関係を表しています。礼拝において、説教を聞くことと聖餐にあずかること、その二つが結び合う所に、主イエスとのまことの出会いが与えられ、復活して生きておられる主イエス・キリストと共に歩む信仰の生涯が与えられるのです。
救いがたい苦悶の詩編
今朝私たちに与えられている詩編88編は、詩編の中でも最も悲哀に満ちた嘆きの詩であり、救いがたい苦悶の詩編です。嘆きの詩編においても一般的には、祈りの応答への確信と神への感謝を詠って終わっているのが普通ですが、詩編88編は最後まで苦悶が続き暗く希望が示されていません。詩人の苦しみは和らげられることはなく、彼は死を予期するに至るのです。ある人々は、この詩編は「ハッピー・エンド」の部分が失われてしまったのだろうと言っています。本詩は、まず、絶え間ない神への訴えから始まっています。2節、3節を読みます。
主よ、わたしを救ってくださる神よ、昼は助けを求めて叫び、夜も御前におります(2節)。
わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください(3節)。
詩人は、最後まで苦しみは和らげられていないのですが、彼の抱えている苦難も神の御手の中にあることだけは確信されているのです。彼の苦難は何なのか。バビロン捕囚の間のイスラエルの民の絶望的な感情を表現したものなのか。あるいは若い頃から病苦に悩まされた一個人の祈りであるのか、あるいは人知れぬ苦しみと考えるのか、詩人は希望のない全くの孤独の苦しみにあります。いずれにせよ、本詩が詩編の中に編集されている事実は驚きに値します。しかし、本詩が詩編に組み込まれており、その中に位置をしめている意味は何なのでしょう。詩人は、神に従う人々全体に警告を与え、彼らがいつの日にか救いのない苦悩という、測り知れない状況に立ち向かうことになるかも知れないと戒めているのです。また、しかし、希望も与えているのです。本詩編の苦しみに匹敵する体験をしている人に対して、彼以前にもそのような苦しみをなめた人がいたということを思い起こさせるからだというのです。9節、10節を読んでみましょう。
あなたはわたしから 親しい者を遠ざけられました。彼らにとってわたしは忌むべき者となりました。わたしは閉じ込められて、出られません(9節)。
苦悩に目は衰え 来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び あなたに向って手を広げています(10節)。
この言葉にある詩人の苦難が何であるかは分かりませんが、その苦難が神ご自身によってもたら
されたものであると、彼は主張するのです。彼の眼は老齢のために衰え、かすんでいるのかもしれませんが、その原因は苦悩によると言うのです。身体的な機能の低下というよりも、原因は苦悶によるのです。「わたしは忌むべき者」とは何なのか、詩人は罪を告白することも無く、また無実を訴えるわけでもありません。ヨブのように友人にも捨てられ、詩人は孤独の中にいるのです。
『詩篇講話』(北森嘉蔵著)という本の中で北森氏は次のように書かれていることは参考になります。
詩篇の特色、人間の生活の中で、すべての書物が間に合わなくなったときに、間に合ってくれる書物が詩篇だという消息がよくわかる所です。ここに書かれているような状況にわたしたちが置かれると、全く孤立無援というふうな気がいたします。独りぼっちという気がするのです。
そういうわたしたちにこの詩篇の作者が、どういう役割をしてくれるかというと、わたしに先立
って、わたし以上に苦しんでくれた人が、じっとそばにいてくれるということです。だからこの言葉そのものは何ら解決を与えてくれませんけれども、じっとそばにいてくれるだけで、わたしたちは孤独でなくなるのです。いわゆる同伴者がいてくれるということになるわけです。
主イエスの姿が見えなくなった
エマオへと向かっていた二人の弟子が、主イエスを中心とする食卓において、目が開け、イエスだと分かった、そのとたんに、「その姿は見えなくなった」と31節にあります。彼らが主イエスの復活を信じることができなかった間は、主イエスは目に見える仕方で共に歩み、語りかけ、教え、パンを分け与えて下さったのです。しかしそれが主イエスだと分かり、復活して生きておられる主イエスが共にいて下さることを彼らが信じたとたんに、そのお姿は目に見えなくなりました。それは、主イエスが復活して生きておられ、共にいて下さることを信じた者は、もはやそのお姿をこの目で見る必要はないからです。そしてそれが、洗礼を受けて信仰者として生きる私たちのこの世における生活です。私たちは、復活して生きておられる主イエスが、肉体の目には見えない仕方で共にいて下さることを信じて生きるのです。どのように暗い、困難な状況においても、目に見える現実には何の救いも助けも見出せないような中でも、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きておられる主イエスが共にいて下さることを信じ、その主イエスに依り頼み、そこに希望を見出すことができるのです。
私たちは聖書を通して、主が語り掛けてくださる御言葉により心が燃える経験を今年度も積み重ねてゆきたいと思います。 お祈りします。