復活の生々しさ
今日は 母の日でもありますが、復活節第4主日の礼拝です。今朝はルカによる福音書24章36節から43節のみ言葉から主の復活のメッセージを聴きます。
イエス・キリストは、肉体をもって復活されました。復活の出来事は、キリストは亡くなられたけれど、心の中にいつまでも生きておられる、というようなこととは違います。あるいは霊的な存在として主イエスは生きておられる、そういうことでもありません。十字架におかかりになるまえと同様に、肉体をもって復活をされたのです。そしてそのお姿は光り輝くものではなく、そのお体にはたしかに、十字架におかかりになったときの釘の跡、槍で突かれた傷の跡が生々しく残っていたのです。それは、主イエスが十字架の上で息を引き取られて三日目のことでした。そしてそれは、弟子たちの中に混乱を生じさせました。まず女性たちが主イエスの墓に行ったところ墓が空になっていることを発見しました。遺体は一体どこへ行ったのか?何が起こったのか?弟子たちは分かりませんでした。一方、エマオへ向かっていた弟子たちに主イエスが姿を現されました。またシモン・ペトロにも現れたとも聖書は記しています。しかし、弟子たちはまだはっきりとは状況をつかめていなかったのです。それが今朝の聖書箇所の場面です。 35節までが小見出しにある「エマオで現れる」話で、36節からは「弟子たちに現れる」という新しい小見出しがつけられています。主イエスの復活を信じた二人の弟子たちは、直ちにエルサレムへと戻って行きました。夕方エマオに着いたのですから、夜の間に今来た道を歩いて戻って行ったのでしょう。そしてエルサレムに戻って他の弟子たちの所に行ってみると、十一人の弟子たちとその仲間たちが集まっていました。そして、「本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」と34節にあります。ペトロに、主イエスご自身が現れて下さったのです。その具体的な様子は聖書に記されていませんが、ペトロも何らかの形で復活した主イエスとの出会いを与えられたのです。弟子たちはペトロからその話を聞き、それについて話していました。エマオから戻った二人も、「道で起ったこと」つまり主イエスが共に歩みつつ聖書を説き明かして下さったのに自分たちはそれが主イエスだと気付かなかったこと、そして「パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第」を皆に話したのです。するとそこに、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち」ということが起りました。主イエスの復活について夢中になって話している彼らの真ん中に、主イエスご自身が突然立たれたのです。そして「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったのです。この言葉は一般的な当時の挨拶の言葉、ヘブライ語の「シャローム」であると考えられます。<こんにちは><こんばんは>そのような挨拶を主イエスはなさったのです。しかし、普通のことのように主イエスは挨拶をなさっていますが、その状況はとんでもないものでした。主イエスは話をしている弟子たちの真ん中に「いきなり」立たれたのです。どこかから入って来られたという形跡がありません。主イエスは普通に「こんにちは」とあいさつをなさっていますが、弟子たちは当然驚きます。「彼らはおそれおののき、亡霊を見ているのだと思った」とあります。当然でしょう。たしかに主イエスが息を引き取られたのを弟子たちは知っています。もし、いったん死んだものの、実は仮死状態だったので、蘇生をしたということなら、主イエスはドアを開けて部屋に入って来られるはずです。しかし、突然、皆の前に現れました。しかしここで、短絡的に、なにか霊的な存在としてキリストが復活をされたと考えてはなりません。 とはいえ、どうにも理解しがたい形で復活の主イエスは現れました。むしろ霊的な存在として現れたのであれば、たとえば弟子たちが考えたように亡霊であれば、まだ私たちも納得できるでしょう。しかし主イエスは、自分は亡霊ではないとおっしゃるのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」とおっしゃるのです。亡霊ではなく、触ることのできる肉体を伴った存在なのだと主イエスはおっしゃるのです。さらには焼き魚を食べるというパフォーマンスまでなさいます。ここは弟子たちのみならず、多くの人々が戸惑うところでしょう。復活なさった主イエスは亡霊のようなものではないが、壁をすり抜けられるようなところがあり、物理的な制約において十字架におかかりになる前の体の様子とは少し違うのです。少し違うのですが、たしかにキリストは生々しく肉体を持って復活をされました。
復活のキリストと出会う
聖書には主イエスを目撃した人々、主イエスと出会った人々の証言がたくさん記されています。その聖書において、主イエスに関する出来事の中で、受肉と復活は、特に重要な出来事です。受肉と復活は、神の救いの根幹に関わる最も大きな奇跡です。しかし、そのふたつの出来事を直接目撃した者はいないのです。復活された主イエスが語られたことや、なさったことを多くの人々が目撃しました。そしてそのことは福音書にも手紙にも書かれています。しかし、復活の決定的瞬間を直接に目撃した人はいないのです。すべての福音書で「空の墓」から話が始まります。墓の中で主イエスが目を開け起き上がられる場面、歩き出される場面などはだれも見ていないのです。復活なさった主イエスとの出会い方も尋常なあり方ではありません。突然、姿が見えたり、消えたりします。亡霊だ、幽霊だと言われる方がよほど信じやすいのです。決定的な場面の目撃証言がないままに不思議な書かれ方で聖書は復活の出来事を伝えています。それゆえ、復活なんて信憑性がないとか、教会の捏造だとかいう愚かな人々も出てきます。 しかし、たしかに2000年に渡り、キリスト者は受肉と復活の奇跡を信じて来たのです。それが愚かな作り話であれば、2000年前に発生した新興宗教のたわごととして歴史の中で消えていったことでしょう。実際のところ、決定的瞬間の目撃者はいないにも関わらずキリストが復活されたという伝承は消えませんでした。復活のことが記されたもっとも古い文書はコリントの信徒への手紙であると言われます。この手紙はキリストの死後20年頃に書かれたことが学問的に解明されています。十字架の出来事から20年という時間はけっして長くはありません。今から20年前のことを思い出してみてください。2005年になりますが、日本では、小泉総理が郵政民営化を問い総選挙で自民党が圧勝した年です。また愛知万博があり、私も見に行った記憶があります。キリストの復活の記事もそうです。実際に主イエスがエルサレムで十字架におかかりになった記憶が鮮明にある人々がまだ残っていた時代です。復活は十字架の出来事をリアルで知っている人々がいなくなった100年や200年後に言い出されたことではないのです。
あなたがたに平和があるように
主イエスは彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。これはもともとはユダヤ人たちの挨拶の言葉「シャーローム」だと言いましたが、しかし主イエスはここで単なる日常の挨拶を語られたのではありません。弟子たちの群れに、神の平和、祝福が豊かにあるようにという思いを込めてお語りになったのです。その神の平和、祝福は、主イエスが体をもって復活なさったことを信じる信仰によってこそ私たちに与えられるのです。主イエスがここで、ご自分の手や足を示し、魚を食べることまでして、体の復活をお示しになったのは、この神による平和、祝福を弟子たちに与えるためでした。主イエスの復活を霊における復活として捉えていたのでは、神による本当の平和、祝福に生きることはできません。なぜならそれは、自分が理解でき、納得できる範囲でのみ復活を捉えようとすることだからです。神が、主イエスが私たちに与えようとしておられる平和、祝福、つまり救いは、そのような生き方によって得られるものではありません。今朝共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第35章はそのことを教えています。ここには、神が与えて下さる救いの姿が描かれています。その救いにおいては、荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れ、熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなるのです。荒れ野、荒れ地が喜び踊り、砂漠が喜んで花を咲かせ、野ばらの花が一面に咲くのです。そして見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人が喜び歌うのです。主イエスが告げておられる神の平和とはそういうものです。それは、人間の力や努力で実現できることではありません。主なる神が、人間をはるかに超えた、世界を支配し導く全能の力によって与えて下さる平和であり、私たちはそれを努力して実現するのではなくて、信じて待ち望むのです。この神による平和、祝福、救いを信じて生きるためには、主イエスが神の力によって肉体をもって復活させられたことを信じることが必要なのです。つまり人間の理性、考え、常識をはるかに超えた神の恵みのみ心が、主イエス・キリストの十字架の死と復活において具体的に実現していることを信じることによってこそ、この平和、祝福、救いを信じ、待ち望みつつ生きることができるのです。
日常の生活の中で
主イエスのお姿をこの目で見ることなしに信じて歩むことは、困難な歩みです。ここでの弟子たちのように、疑いや迷いがいくらでも起るのです。しかし、復活を信じて生きる者は主イエスのお姿をこの目で見る必要はないということでもあります。復活して今も生きておられる主イエスは、目で見るという人間の感覚をはるかに超えた、ずっと確かな仕方で、私たちと共にいて下さるのです。それは聖霊のお働きによってです。聖霊によって私たちは、この目で見るよりも確かに、主イエスと共に生きることができるのです。主イエスは聖霊のお働きによって、体をもって復活した方として、体をもってこの世を生きている私たちと、具体的に共にいて下さるのです。聖霊のお働きによって私たちは、頭や心の中だけではなく、日々の具体的な生活の中で、復活なさった主イエスと共に生きるのです。今朝の箇所において、「食事」というまことに具体的かつ日常的な事柄が大事な役割を果たしているのはそのことを示していると言えるでしょう。また主イエスが体をもって復活なさったことをなかなか信じることのできない弟子たちのために、主イエスが焼き魚を食べて見せたというのも、食事というまさに肉体的な、そして日々の具体的な生活の場において、主イエスが共にいて下さることを示して下さるためでした。日常の生活の中でそのように主イエスと共に歩む体験を通して、私たちの中の、主イエスの復活への疑いや迷いは解消されていくのです。
わたしを愛しているか
植村正久という牧師は、明治時代以降の日本のプロテスタント教会の偉大な伝道者の一人です。しかし彼は、若い時に、当時、全く閉鎖的な土地柄であった名古屋で、幾ら伝道しても全く聞いてもらえず、石を投げられることもあり、とうとう東京に逃げ帰ったことがあったようです。その植村牧師の好きな聖書箇所は、甦りの主がペトロに「わたしを愛しているか」と三度言われた箇所(ヨハネ21・15-19)であったと言われます。情けない自分に対する主イエスの愛に心打たれたのではないでしょうか。
ルカが書いた福音書の復活の記事は、愛という言葉は語っていませんが、けれども、魚一切れを弟子たちの前で一生懸命に食べていてくださる主イエスのお姿に、弟子たちのこころは、主イエスに対する愛で満たされたことは確かでしょう。食べることは生活の基本です。主イエスは食事を大切にされました。食事の場面が、これほど繰り返し描かれる古代文学は、他にはないでしょう。そして福音書でルカだけが主イエスの復活の証明として「焼き魚」を食べたことを書いています。復活された主イエスを見て、亡霊だと思った弟子たちに、一生懸命焼いた魚を食べて見せている主イエスの姿はユーモアさえ感じます。椎名麟三という作家は、「どうも復活後のイエスは、食べてばかりいる」と言っていますが、その通りかもしれません。なるほどと思います。イエスは大食漢だと悪口も言われたようです。食べることは、生きている証に他なりません。食べると元気が出て、しゃべるようになる。しゃべるとお腹がすいて、食べるようになる、すると元気が出て・・、の繰り返し。私もよく食べるのですが、弊害が出てきました。最近、体の動きが鈍く疲れるので体重を計ったら99.6キロありました。今、100キロを超えないように注意しているのですが、抑えられるかは未知数です。大磯教会に来た頃は80キロ以下だったと思うので、もう限界まで来ました。主イエスは、魚を食べ、肉を食べ、パンを食べ、ご飯を食べながら生きる私たちと共にあります。そしてやがて病気や地上の生活を終わるような時、食も細って食べられなくなってしまうような時も、私たちと一緒にいてくださる。教会はその望みに生き続けて来たのです。主イエスの弟子たちは、後に御言葉と祈りに加えてパンを裂くということを大切に守るようになります。復活した主イエスに出会った証しとして使徒たちはパンを裂き、教会は主の晩餐を守ることで主の死と復活を世に示し続けるのです。
神の約束としての復活
そしてそれらのことはすべて神のご計画の内にありました。愛のご計画、救いのご計画の中にありました。愛を持って私たちの肉体を造ってくださった神は、2000年前突然キリストを復活させられたわけではありません。44節に「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と主イエスが語っておられます。復活は、人間の救いのために、罪からの救いのために、すべては神がご計画されていたことでした。そしてそのことはあらかじめ知らされていたことでした、神が約束されていたことでした。神はその約束を果たされました。しかしそれで終わりではありません。神の約束はまだ続きます。いま肉眼で私たちは私たちの真ん中におられるイエス・キリストを見ることができませんが、やがて見ることのできる日が来ます。再臨の時です。そしてまた私たち自身も復活をします。すでにこの地上を去った愛する兄弟姉妹もそうです。終わりの日に肉体をもって復活をします。その日、すべての涙はぬぐわれます。神の約束は続くのです。その約束の希望に生きる力を与えられるのがキリストの復活の出来事です。キリストの復活は、神の約束の成就であり、さらに与えられる約束への確かな希望です。 祈ります。
5/11説教「肉体をもった復活」<動画>
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