心を開かれて
ルカによる福音書は主イエスの十字架の受難と復活を大きな比重をもって書いていますが、第24章は、1節から一貫して同じ日の出来事を語っているのです。復活の日の朝、主イエスの甦りが起こる。婦人たちが主イエスの墓が空であったことをペトロに告げる。その日のうちに、エマオへ二人の弟子たちが帰ろうとする。主イエスが共に歩んでくださり聖書の説き明かしをして下さった。夕暮れになって、夕食を主イエスが共にしてくださった時、二人は主イエスだと分かったのです。喜んだ二人の弟子たちは、その日のうちにエルサレムにとって返したのでした。そしてその夜、そのまま彼らが話をしているところに主イエスもお出でになって、また食事をなさり、また聖書のみ言葉を説き明かしてくださったのです。すべてその日のうちの出来事だったというのです。礼拝説教でも、何回かに分けて話しているので、とても一日の出来事とは思えない気がするのですが、聖書はそう伝えているのです。今朝の場面はその最後の場面なのです。長い一日の終わりであると共に、新しい夜明けへの備えの時でありました。主イエスがここで弟子たちにお求めになったことは、これからなお、上から聖霊の力を授けられる、その時までエルサレムに留まって、祈り、待ち続けなさいということでした。こうして新しい時代を迎えるためのしばらくの備えの時が始まるのです。
そして45節には「イエスは聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた」とあります。主イエスは御自分が聖書に書かれている救い主であることを弟子達に悟らせるために心を開いて話されたのです。悟るとは、心から納得し信じることです。そのために主イエスは弟子達の心を開かれ、悟らせたのです。今日、私達の心を開き、悟らせるのは聖霊です。主イエスの霊である聖霊が私達の心を開き、主を悟らせ、主を信じる信仰を与えてくださるのです。
救いの証人となる
そして、それに続く第二の場面は47節後半から49節です。ここで主イエスは「エルサレムから始めてあなた方はこれらのことの証人となる」と語っています。主イエスは、弟子達が、救い主だと悟った後、全世界に向かってそのことを証人として伝えに行くことを命じておられます。「証人となる」と表現しているのはルカによる福音書だけです。主イエスの歩みを歴史的事実として書いてきた歴史家としてのルカの特徴がここに現れています。しかも、ルカは十字架と復活の出来事によって主の救いが実現したエルサレムを原点として世界宣教を命じているのです。ルカによる福音書の続編「使徒言行録」では福音はエルサレムから始まって全世界に向かって宣べ伝えられます。ルカは、読者にも福音の証人となることを命じているのです。しかし、証人となれば迫害され、試練・困難が押し寄せてきます。では、どのような力によって福音の証人となるのか。それは聖霊のお働きです。主イエスは言われます、「父が約束されたものをあなた方に送る」と。父なる神が与えると約束された聖霊によって初めて証人となるのです。何という主の配慮でしょう。しかし、その聖霊が降されるまでには時がある。だから、主は「それまで都エルサレムに留まるのだ」と命じているのです。
主イエスの昇天
最後の第3の場面は24章50節から53節です。ここは主イエスが天に帰って行かれる場面です。主イエスは弟子達をベタニアの辺りに連れて行きます。ベタニアは、主イエスがエルサレムで過ごされた時、そこから通われた懐かしい所です。マルタ・マリアの姉妹、ラザロのいたところです。主は思い出のベタニアで地上に別れを告げ、天に上げられます。「天に上げられた」とは、「父なる神の御許に帰られた」ことを意味します。それは私達にとっても帰るべき所は天の父なる神の御許であることを教えられます。それはまた「主が再び来たりたもう」ことも教えています。それまでは、私たちは「中間の時・教会の時」として主イエスのことを全世界に宣べ伝えねばなりません。弟子達は主を見送った後、主を伏し拝み、大喜びでエルサレムに帰り、神殿の境内で神をほめ讃えていたのです。
ところで、キリストの昇天について私たちはどのように理解しているでしょうか。カン違いしがちなのは人間が死ぬと昇天すると言いますが、それとは違います。最も古い信仰告白である使徒信条では「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白します。また、ニケア・コンスタンティノポリス信条でも「聖書の通り三日目に甦り、天に昇り、父の右に座し、」と告白します。ルカは引き続き続編として使徒言行録を書いていますが、それによると主イエスは40日にわたって弟子たちに現れ、話をされ食事も共にされています。そしてガリラヤで弟子たちが見ているうちに天に上げられたと書かれています。同じルカが書いているのになぜ違うのでしょう。弟子の立場で書いたのと書き方が違っているとも言われ、いろいろ説があるようですが、こういうことではないか。
イエスの復活後、40日をかけて弟子たちがガリラヤに移動、そこでイエスが昇天、そして再び弟子たちがエルサレムに戻ってきて、聖霊の降臨があった。
ということです。
ところで、この復活後の主イエスと弟子たちとの関わりは、私たちが今与えられている主イエスとの関わりに近いものです。私たちも、目に見える仕方でいつも主イエスと一緒にいることはできません。寝食を共にするような仕方で主イエスに従っていくことは私たちにはできないのです。しかし弟子たちと私たちの間には違いもあります。弟子たちはそれでもここで、復活した主イエスを目の前に見ています。一時であれ、目に見える仕方で主イエスと出会うことができたのです。しかし私たちはそうではありません。この弟子たちのように、一時でも、復活された主イエスと目に見える仕方で出会うことができたらいいのにと思いますが、私たちには、そのような形での主イエスとの関わりは与えられていません。私たちは、この目で見ることなしに主イエスを信じ、目に見えない主イエスと共に歩まなければならないのです。弟子たちと私たちのこの違いは何によるのでしょうか。弟子たちは、一時にせよ復活した主イエスのお姿を見ることができたのに、どうして私たちにはそれができないのでしょうか。
主イエスの昇天によって
それは、今朝の箇所の50節以下に語られているように、主イエスが天に上げられたからです。51節に、「彼らを離れ、天に上げられた」とあります。それを主イエスの昇天と言います。「天に昇る」と書く「昇天」です。それは死んだという意味ではありません。体をもって復活した主イエスが、その体において地上を離れて天に上げられたのです。復活からその昇天までの間、主イエスは繰り返し、目に見える仕方で弟子たちの前に姿を現されました。しかし昇天以後はもう、この地上で、目に見える仕方で主イエスとお会いすることはなくなったのです。このルカによる福音書の続きとして、同じ著者によって書かれたのが「使徒言行録」ですが、その最初の所には今朝の箇所と内容的に重なっている部分があります。使徒言行録の1章9節にやはり主イエスの昇天のことが語られているのですが、そこには「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」とあります。天に上げられたことによって、主イエスのお姿が目に見えなくなった、それが昇天という出来事なのです。この昇天以降、地上を生きる私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることはなくなったのです。
聖書を悟るとは
目に見えない主イエスを信じて生きていくという新しい時代に備えさせるために、主イエスはここで弟子たちに、聖書を説き明かして下さいました。聖書に何が語られているのかを示し、それがご自身の十字架と復活によって実現したこと、そしてこれからも実現していくことをお語りになったのです。そのことによって主イエスが教えて下さったのは、目に見えない主イエスを信じて生きていく私たちの信仰を支え、導き、励ますのは聖書のみ言葉だということです。聖書が説き明かされることによってこそ、主イエスをこの目で見ることのない私たちにも、信仰が、罪の赦しを得させる悔い改めが与えられるのです。しかし、聖書に書いてあることの内容をただ知識として知っていても、それで信仰が得られるわけではないし、罪の赦しを得させる悔い改めに至ることはできません。必要なのは、聖書を本当に悟ることです。そのことを語っているのが45節です。「そしてイエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とあります。復活した主イエスが弟子たちにして下さったのは、ただ聖書を説明し、ご自分について書かれていることを教えた、ということではなかったのです。主イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて下さったのです。聖書に語られている神の救いのみ心が主イエスの十字架と復活において実現し、これからも実現していくことを私たちが本当に知るためには、心の目を開かれなければなりません。聖書を知識として知っているだけでは、主イエスとは誰であるかということも、主イエスによって実現した神の救いの恵みも、そして罪の赦しを得させる悔い改めも、分からないのです。分からないというのは、それが自分に与えられている救いであることが分からないということです。主イエスがこの私の救い主であることが分からないのです。主イエスの十字架の死と復活によって、この私の救いが実現したということが分かること、それこそが、聖書が本当に分かるということです。そのためには私たちは、心の目を開かれなければならないのです。
祝福しながら
そして50節以下に、主イエスが天に上げられたこと、昇天が語られています。先ほども申しましたように、使徒言行録第1章9節の昇天の場面では、主イエスのお姿が「彼らの目から見えなくなった」ことが語られています。ルカによる福音書における昇天の場面の特色は、主イエスが手を上げて弟子たちを祝福なさり、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた、と語られていることです。主イエスは弟子たちを祝福しながら昇天なさったのです。主イエスが天に昇られることによって、彼らはもう主イエスのお姿を肉の目で見ることはできなくなるのです。かつてのように、寝食を共にするような仕方で一緒にいることはなくなるのです。目に見えない主イエスを信じて、主イエスによって実現した救いを心の目、信仰の目で見つめて生きていくのです。そのように、目に見える仕方においては彼らを離れていく主イエスが、しかし祝福を与えつつ離れて行かれた、そのことによって、目に見えない方となられた主イエスは、いつも彼らを祝福していて下さるのだ、ということが示されているのです。
良い言葉を語りつつ
「祝福する」という言葉は、その成り立ちにおいては、「良い言葉を語る」という意味です。天に上げられ、目に見えなくなった主イエスは、弟子たちに、信仰者に、常に「良い言葉」つまり恵みの言葉、救いの言葉、罪の赦しの言葉を語っていて下さるのです。ルカ福音書が主イエスの昇天において強調しているのはそのことです。そしてそれゆえに52節以下には、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と語られているのです。「大喜びで」とあります。昇天によって主イエスのお姿が見えなくなったのです。目に見える仕方ではもう共におられなくなったのです。それなのに彼らは「大喜び」した。それは、主イエスがいつでも祝福していて下さること、良い言葉、恵みの言葉、救いの言葉を語りかけていて下さることを確信したからです。その大きな喜びの中で、彼らは神をほめたたえていた。主イエスが自分たちを祝福して下さっていること、良い言葉を語って下さっていることを確信した彼らは、自分たちも神を祝福しつつ、感謝と賛美の言葉を、そして罪の赦しを得させる悔い改めの言葉を語りつつ、聖霊を与えられることを待っていたのです。主イエスのお姿は肉の目には見えなくなりました。しかし主イエスと彼ら弟子たち、そして信仰者の間には、このような、主イエスが常に祝福を与えて下さり、それに応えて信仰者が神を礼拝し、ほめたたえるという関係が打ち立てられたのです。復活した主イエスが、弟子たちとの間にそのような関係を打ち立てるために、様々な仕方でご自身を現し、語りかけて下さったことをこの24章は語っているのです。このような周到な準備を経て、ペンテコステの出来事、聖霊が降り教会が誕生するという、救いのみ業における新しい展開がなされていったことをルカ福音書はそのしめくくりにおいて語っているのです。この恵みの中で私たちも今、礼拝において聖書のみ言葉の説き明かしを受け、聖霊のお働きによって心燃やされつつ、目に見えない主イエスを信じ、その祝福にあずかり、そして主イエスの父である神に喜びと賛美と感謝の言葉を語りつつ生きることができるのです。