はじめに
ここ1年以上前から、説教でルカによる福音書から御言葉のメッセージを聴いていますが、レント、イースターを過ぎ、復活節のメッセージを共に聴いてきたわけですが、今日から11章1節から御言葉の恵みに与りたいと思います。今朝の個所は、主イエスの弟子たちが主イエスに祈りについて教えてくださいとお願いして、主イエスが教えてくださった祈り、いわゆる「主の祈り」について記されています。私たちの信仰生活において、事あるごとに祈る「主の祈り」について聖書の語るメッセージを聴きたいと思います。
ところで、私自身は牧師ですが祈りが得意というわけではありません。信徒の方で状況に合わせ的確な言葉で、祈られる方がいますが、感心いたします。祈りにも力量があるかもしれないと思うことはあります。先日、神奈川連合長老会の牧師会があり、いろいろな議題があり、また牧師の個人情報で、御病気の方、牧師になる正教師試験を控えている方、教会で問題を抱えている方など、いろいろあるわけですが、最後に司会の牧師が、閉会の祈りをある牧師に指名しました。その際、司会の牧師が、具体的に病気のA牧師のため、また教会で問題を抱えているB牧師のことを覚えて、そして正教師試験に備えて欠席されているC教師のことも覚えてお祈りください。というようなことを言われました。私は指名されなくて良かったと思いました。私はとても要望に沿った祈りは出来ないと思ったのです。でも指名された牧師は、一つ一つのことに触れながら的確に、心を込めて祈られました。祈りも心を込めた訓練も必要なのだと思います。私が祈りにも訓練が必要だ。と言ったらある教会員が祈るのに訓練が必要だとは初めて聞いた、と大変驚かれていました。しかし、祈りは基本的に神との一対一の対話です。神の前に独りで立ち、語りかけるのです。たとえ仲間たちと一緒に祈るとしても、語りかけるのはそれぞれ自分です。自分と神との間に一対一の人格的な関係がなければ、祈ることはあり得ません。そして、いつも祈る生活がなければならないのです。聖書の理解を深める努力も必要ですが、いつも祈る習慣が必要なのです。
祈りは短い方が良いか
ところで、「主の祈り」について聖書はルカによる福音書とマタイによる福音書に記されています。この主の祈りは口伝えで、つまり伝承として初代教会においても祈られていたと思われるのです。新約聖書が編纂されたのは1世紀から2世紀頃ですが、誰かの家で行われていたであろう初代教会において、主イエスが教えてくださった「主の祈り」はそこでも祈られていたのです。そして私たちが日頃祈っている「主の祈り」はマタイによる福音書6章9節から14節に書かれている主の祈りの方です。キリシタンが1600年頃日本に伝来した時代にも主の祈りは伝わっていますが、それもマタイ版です。ルカ版はマタイ版よりも祈りの言葉が短いのが特徴です。たとえば、「天にましますわれらの」や、「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」、「悪より救い出したまえ」の言葉がありません(マタイ6章9-13節参照)。祈りの長さについてはルカ版の方が元来の主イエスの発言を保存していると言われています。主イエスは「祈る言葉は短い方が良い」と思われていたのではないでしょうか。イエスは、しばしばなされていた当時の宗教家たちの祈りについて批判をしています。最も強烈な批判がルカによる福音書18章9節から14節に報告されています。ファリサイ派のこれみよがしな祈り、しかも堂々と隣人を差別する長い祈りをイエスは批判し、ただ一言「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る徴税人の短い祈りをほめました。
父よ
まず主イエスは神に「父よ」と呼びかけられて祈られました。22章42節にはオリーブ山で「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と呼びかけて神に祈られる主イエスの姿が語られています。マルコによる福音書では、主イエスは神に「アッバ、父よ」と呼びかけていますが、この「アッバ」は、小さい子どもがお父さんを呼ぶときの言葉です。日本語で言えば「お父ちゃん」となるでしょうか。ユダヤ人にとって、小さい子どもがお父さんを呼ぶように、神に「父よ」と呼びかけるのは考えられないことでした。旧約聖書で神を「父」と呼んでいる箇所はまったくないわけではありませんがほとんどありません。「父」と呼んでいる箇所でも、たとえば「造り主なる父」(申命記32:6)とか「唯一の父」(マラキ書2:10)とか、あるいは「わたしたちの父」(イザヤ書63:11)と言われていて、これらは「父よ」、「お父ちゃん」と呼びかけるのとはまったく違います。神を父と呼んでいても、そこには距離があるのです。しかし主イエスは神に「父よ」と呼びかけられ、そして私たちにも神に「父よ」と呼びかけるよう教えられます。小さな子どもとお父さんのように距離の近い、親密な神との交わりに生きるよう私たちを招かれているのです。
しかし私たちは本来、神を父と呼ぶことはできません。神を父と呼ぶことができるのは、神の独り子である主イエス・キリストただお一人だけだからです。それにもかかわらず私たちが神を父と呼ぶことができるのは、私たちが主イエス・キリストの十字架と復活による救いに与り、主イエス・キリストと一つとされたからです。神の独り子である主イエスと結ばれ、神の子どもとされた私たちは、「父よ」と呼びかけて神に祈ることができるのです。
御名が崇められますように
まず第一の祈りが「御名が崇められますように」であり、私たちが用いている「主の祈り」の言葉では「願わくはみ名をあがめさせたまえ」です。「御名」とは神のお名前のことです。私たちは、この「願わくはみ名をあがめさせたまえ」という祈りは、私たちが神のお名前をあがめることを祈り求めている、と思っているのではないでしょうか。しかしそうではありません。「崇める」と訳されている言葉は、「聖とする」、「聖なるものとする」と訳せる言葉と言われます。そして神のお名前を聖なるものとするのは、私たちではなく、ほかならぬ神ご自身なのです。ですから「御名が崇められますように」という祈りは、「神がご自分のお名前を聖なるものとしてください」、と神のみ業を祈り求めているのです。
御国が来ますように
第二の祈りは「御国が来ますように」です。御国とは神の国ですが、その「国」とは支配という意味です。神のご支配が実現しますように、というのがこの祈りの意味です。「御名が崇められますように」の場合と同じように、このことも、神ご自身がして下さることです。神の国は、私たちが地上に建設するものではなくて、神が来らせて下さるものなのです。そのことは、主イエス・キリストによって決定的に実現しました。神の国、つまり神の私たちへのご支配は、主イエスの十字架の死と復活によって、罪を赦し、私たちを神の子として新しく生かし、復活と永遠の命を約束して下さるという仕方で実現したのです。しかしこれも、まだ完成はしていません。それが完成するのは、復活して天に昇られた主イエスが栄光をもってもう一度来られ、今は隠されているそのご支配があらわになる時です。その時、今のこの世は終わり、神の国が完成するのです。私たちはその時まで、「御国が来ますように」と祈りつつ生きるのです。ですからこの祈りは、主イエス・キリストによって実現している神のご支配を感謝して、そのご支配の完成を待ち望む祈りなのです。
救いの完成と神の支配の完成を待ち望む
しかしなぜ、主イエスの十字架と復活によって救いが実現し、神のご支配がこの地上に実現した後の時代を生きている私たちが、「神がご自分の名を聖なるものとしてください」と祈り、「神のご支配が実現しますように」と祈る必要があるのでしょうか。すでに実現してしまっているのであれば、これらのことを祈る必要がないように思えます。けれども先ほどお話ししたように、主イエスは「主の祈り」を、十字架と復活、その昇天の後の時代を生きる私たちに教えてくださいました。私たちが生きているのはすでに救いが実現し、すでに神のご支配がこの地上に実現した後の時代ですが、しかし同時にいまだ救いが完成していない、いまだ神のご支配が完成していない時代でもあるのです。私たちは「すでに」救いが実現し、しかし「いまだ」その救いが完成していない時代に生きています。だから救いに与り、神のご支配に入れられて生きている私たちは、救いの完成を求めて「神がご自分の名を聖なるものとしてください」と祈り、神のご支配の完成を求めて「神のご支配が実現しますように」と祈るのです。「御名が崇められますように。御国が来ますように」という祈りは、私たちが「すでに」と「いまだ」の緊張関係の中にあって、救いの完成と神のご支配の完成を待ち望みつつ生きるよう導いているのです。
日々の言葉で率直に祈る
次に、主イエスは日常の食事のために祈ります。神と人が近づいているので、この祈りに実感があります。主イエスの考える神は、子どもに駄々をこねられる親のような方です。だからわたしたちは神に、「来る日のパンを毎日ください」と祈って良いし、このような日常の求めこそ、本当の意味で敬虔な宗教的に深い祈りなのです。「必要な糧」(3節)は「来る日のパン」という意味です。来る日とは、寝る前に祈れば翌朝のパンだし、朝祈れば日中のパンのことです。それが毎日毎日当たり前のようにあってほしいという切実な願いを祈ることが求められています。
しかしそれにしましてもこの祈り、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りは、前からの続きの中で見てみますと、なんだか突拍子もない感じがいたします。突然飛び出してくるような感じがいたします。壮大な音楽の調べの中に、突然不協和音が入り込んでしまったように聞こえたりします。もしそういう違和感を、私たちがこの祈りについて持つとしたら、それはきっとこの祈りが、あまりにも私たちにとって身近で、具体的すぎる祈りだからではないでしょうか。「御国が来ますように」なんていうのは、壮大なスケールの祈りであります。大きな話です。世界全体を問題とする視野の大きな祈りであります。ところがその大きな祈りの直後に、なにか大変物質的なことがらが入ってくることに、私たちはびっくりしてしまう。神の国が来るように、と祈ったそのすぐ後で、今日必要な私たちの食べ物が与えられるように、と祈るからです。
次に主イエスは日常の貸し借りと神に対する罪を重ねて祈ります。「負い目」(4節)は「借金」という意味です。次に主イエスは日常の貸し借りと神に対する罪を重ねて祈ります。「負い目」(4節)は「借金」という意味です。イエスは、「なぜ人間にいさかいが絶えないのか」ということの原因を、「人間が恩知らずだから」という点に求めます。「仲間を赦さない家来の例え話」(マタイ18章21-35節)は、主の祈りの心を説明しています。一万タラントンの大借金を王さまに赦してもらった家来が、自分に百デナリオンの借金をしている仲間を赦さず厳しく取り立てるということは、人間の世界でしばしば起こっています。「人には厳しく自分に甘く」という態度はわたしたちにもよくあります。
すべての人は神に対する大借金(単数の罪)を無条件に赦されています。2000年前に起こった十字架と復活の事実に気づき救いを受け入れるなら、隣人の負い目は気にならなくなるはずなのです。隣人に苛立つ人は、まず神を見るべきです。自分も、あなたの憎む相手も、神から見れば同じように大借金を無条件に赦された罪人に過ぎません。キリストは、自分を苛立たせている、その人のためにも十字架で殺されたのです(ローマ14章15節)。