6/1説教「求める者は与えられる」

はじめに

先週、私たちは、「わたしたちにも祈りを教えてください」と主イエスに願った弟子たちに、主イエスが「主の祈り」を教えてくださったことを学びました。つまり「主の祈り」は、祈る内容についての教えでした。短く率直に日常生活に即した内容で祈ることが、主の祈りで要求されていました。神は遠い存在ではなく、「父よ」と親しく話しかけることが出来るのだとも教えられました。しかし、主イエスは「主の祈り」を教えて、それで祈りについての話を終えられたのではありません。それに続く今日の箇所でも、主イエスは祈りについて弟子たちに教えられているのです。それは、祈る姿勢についての教えです。どのような態度で祈ることが良いのかということです。祈りということについて、信仰者においても理解やイメージが違っているように思います。ある人にとっては、祈りはもっと真剣にがむしゃらに神に求めるるべきと思うかもしれません。しかし主イエスはオリーブ山で、ひざまずいて「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください。」と、神に委ねるように祈っています。また、祈りにはそれぞれのバリエーションがあります。基本は密室の祈りで、神に一対一で語る祈りです。しかし、礼拝の司式者の祈りもあり、献金の祈りもあり、集会での祈りもあり、毎月の誕生者にたいする祈り、食事の祈り、病床での祈り、葬儀での祈りなど生活のあらゆる場面で祈りがあるのです。さて、主イエスは、弟子たちにそして私たちに祈りの姿勢について何を語っているのでしょうか。早速、み言葉の恵みなあずかりましょう。

 

真夜中にパンを求めるたとえ
主イエスはここで一つのたとえ話を語られました。真夜中に、友達の家を訪ねて、「パンを三

つ貸してください」と願う、というたとえです。当時の社会においては、旅行者はいつでも、誰

の家でも訪ねて援助を求めることができるし、またそれを求められた人はできる限りのことをし

て旅人をもてなさなければならない、ということこそが常識でした。なぜなら、当時の旅行は文

字通り命がけのことであり、空腹や渇きによって行き倒れてしまう人が多かったからです。です

から客人をもてなすというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるとい

う意味を持っていたのです。ですから、夜中でも訪ねてきた友人のために何か食べるものを用意

しようとすることは、当然のこと、なすべきことです。ところが家にはあいにくパンが全く無か

ったのです。そこで、真夜中に、近くにいる友人の家に助けを求めていった、というのがこのた

とえの設定です。今ならコンビニに買い出しにいくことができますが、主イエスの時代は、真夜

中にはどの店も閉まっていました。そこでその友だちをもてなすために、別の友だちのところに

行くことにしました。旅行中の友だちにはくつろいで旅の疲れを取っていてもらい、その間にも

てなすためのパンを調達するために、別の友だちの家を訪ねたのです。そしてその近所の友だち

にこのように言いました。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところ

に立ち寄ったが、何も出すものがないのです」。するとその近所の友だちは家の中からこのよう

に返事をしました。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそば

で寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」。この近所の友だちの言い分

も分かります。家はそんなに広くないのです。子どもは横で寝ています。明かりをともして、ゴ

ソゴソパンを探したり、ガタガタ戸を開けたりしたら、せっかく寝ついた子どもが起きてしまう

に違いないのです。これが主イエスの話された譬え話です。ですから私たちが自分と近所に住ん

でいる友だちの出来事としてこの譬え話を聞くなら、いくら近所の友だちといえども、真夜中に

押しかけられて「パンを貸してください」と言われたら、なかなか貸せるわけではない、という

ことになるのです。

 

しつように祈ることの大切さ

続けて主イエスは8節でこのように言われます。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」つまり近所の友だちということでは、寝ている子どもを起こしてまで何かを与えてくれることはなくても、しつこく諦めずに頼めば、その近所の友だちは起きて来て、必要なものを何でも与えてくれるだろう、ということです。そうであるならば、この譬え話を通して、主イエスは弟子たちと私たちに、神に「しつように頼む」こと、しつように祈り続けることを教えられているということになります。9節、10節には「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」とあります。

確かに祈りにおいて、しつように祈ることは大切でしょう。必死に、熱心に、根気強く、忍耐して祈り続けることが求められるのです。私たちの祈りはすぐには聞かれないことがあります。だからといって簡単に諦めて、そのことを祈らなくなるようではいけないのです。簡単に諦めることなく、神につかみかかるようにして祈る。それこそ求め続け、探し続け、叩き続ける。そのように祈ることは私たちの祈りに必要なのです。私たちの祈りは整った祈りを意識しすぎかもしれません。慣習的に祈っているだけかもしれません。ところで、この例え話は、やもめと裁判官の例え話とよく似ています(18章1-5節)。どんなに悪い裁判官も、あんまりしつこい求めについては、そのやもめのためにという理由ではなく、自分の利益のために、これ以上の面倒をかけられたくないという判断により、やもめの求めに応じるはずだという例え話です。つまり、このやもめの話にしろ、今朝の友人にしろ、したたかな人達です。相手が打算的な理由で折れてくれる状況を作り出し、いつかは妥協してくれるということを予測し、厚かましくお願いを続けているからです。彼らはしつこく賢いのです。その一方でこの両者が必死であることも事実です。最後のチャンスとばかりに裁判官や寝ぼけ眼の友人に熱意をもって愚直に願い求めています。彼らは鳩のように素直でもあります。

いずれにせよ両者の共通点は、相手の事情をまったく考えていないことです。自分の要求が通ることだけを考え、脇目も振らずに、わがままに図々しく願い続け、そしてその思いを遂げています。裁判官も叩き起された友人も、初めは親切をする気が全くありませんでした。これ以上関わると面倒だなというように、彼らの気持ちを変えたことと、祈りが関係するのです。この真夜中に叩き起された友人と、神が似ているとイエスは語っているように思えます。「パンを三つ貸してくれ」と真夜中に戸を叩き続ける人物に、祈りの模範的が例えられているようです。実に大胆な例え話です。面倒臭がって願いを渋々聞くという姿が、慈愛に満ちた神の姿とは程遠いように思います。イエスは、もっと図々しく祈り続けなさいと命じているのでしょうか。

「困ったときの神頼み」と言われます。本当にそうだと思います。格好つけていられない必死の場面というものが、人生にはあります。そのような窮地には、どんな人でも図々しく祈るものです。そうであるならば、その図々しい祈りをいつもしなさいとイエスは命じています。人生を生き抜くということ、一日を生きること、来る日のパンを確保することは、本当に必死の努力です。何とかしてくださいと熱意をもって図々しく率直に、面倒がられるぐらいにしつこく、毎日ささいなことも祈ることです。弟子たちに、主イエスはもっと素朴な祈りの態度を教えています。どんなに願いが聞かれていないように思えても、しつこく願い続けることが信仰というものだと。これが一つの考え方です。

 

疑問
けれども私たちはここを読むと、いくつかの疑問を覚えるのではないでしょうか。一つには、真夜中に友人の家にパンを借りにいくこの話が、祈りについてのたとえであるとするなら、この友人が神のことだということになる。そうすると、神が私たちの祈りに応えて下さるのは、あるいは祈りを聞いて下さるのは、「友達だから」ではなく、つまり愛によってではなく、「しつように頼めば」、つまり私たちが神の迷惑を顧みずにしつこく祈り続けることによって、神もついに根負けして、これ以上めんどうをかけられたくないから仕方なく聞いて下さるということなのか、私たちと神との関係はこのようなものなのか、という疑問が湧いて来るのです。またもう一つの疑問も感じると思います。それは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうか、という疑問です。祈って求めればそれは必ず与えられるのだろうか、祈り求めてもかなえられない、与えられないものがある、ということを私たちは体験しているのではないでしょうか。だから「求める者は受ける」と単純に信じて祈ることなどできない、と感じることも多いのではないでしょうか。

これらの疑問への答えは、11節以下にあると思います。11、12節にこうあります。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」。これは父親だけの話ではなく、母親も含めて、それを受けて13節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」とあります。「あなたがたは悪い者でありながらも」というのは、罪があり、欠け多く、弱さをかかえているあなたがた人間も、ということです。基本的には、私たちは罪人であっても子供には良い物を与えようとする。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。これこそが主イエスが言おうとしておられることです。つまり主イエスは、私たち罪人である人間の親でさえ持っている子供に対する愛を見つめさせることを通して、それよりもはるかに大きく深く広い、天の父である神の愛を見つめさせようとしておられるのです。つまり、神は私たちを愛しているからではなく、しつように頼むことによって仕方なく祈りを聞いて下さる方なのか、という問いです。このたとえはそういうことを語ろうとしているのではないのではないか。この友人の姿もまた、神のことではなくて、私たち罪ある人間の姿を表しているのです。つまり私たちは、友人だからという理由で、つまり純粋な愛によってと言うよりも、しつこく言ってきてうるさいから、これ以上迷惑をかけてもらいたくないから、などという理由でようやく腰をあげて人のために動くような者です。それが、「悪い者である」私たちの姿なのではないでしょうか。しかし天の父は、そんな不純な動機によってではなく、いやいやながらでもなく、喜んで、あなたがたに良い物を与えて下さるのだ、主イエスはここでそういうことを語っておられるのです。ですから「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、天の父である神が喜んで、進んで、あなたがたに良い物を与えようとしておられる、ということを語っているのです。つまり、天の父である神が私たちに対してどのようなみ心を持っておられるのか、どれほど私たちを愛して下さっているのか、ということを語っているのです。

 

聖霊を与えてくださる

私たちはこの神に信頼して祈ります。その私たちに、天の父なる神は「聖霊を与えてくださる」と言われています。聖霊の働きによってこそ私たちは自分が神に本当に愛されていることを知らされます。聖霊の働きによってこそ私たちは最も良い道へと導かれ、最も良いものを与えられるのです。そして聖霊の働きによってこそ、確かに祈りを聞いてくださる神に信頼して、熱心に、根気強く祈る者へ、私たちは変えられていくのです。その聖霊を天の父なる神は、祈り求める私たちに惜しむことなく与えてくださるのです。

 

神を見出す
本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、エレミヤ書第29章10節以下です。その12節から14節にかけてのところにこのようにありました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」。これは、主なる神があなたたちの祈りを聞くと約束して下さっているみ言葉です。祈りが聞かれるとはどういうことかというと、「わたしを見出し、わたしに出会う」ことです。つまり、主なる神との出会いと交わりが与えられることこそ、祈りが聞かれることなのです。私たちにおいては、その恵みが聖霊によって与えられます。私たちの祈りに応えて神が聖霊を与えて下さり、聖霊が私たちを御子イエス・キリストと結び合わせて下さり、神との間に、父と子という関係を、交わりを与えて下さるのです。それが、祈りにおいて与えられる恵みです。この恵みを信じて祈りなさい、と主イエスは教えておられるのです。

 

私たちが求めている良い物とは、実は聖霊にほかならないのだ、と主はお語りになっておられるのです。聖霊を与えられるということは、神と共に歩むようになるということです。神は、私たちが祈りにおいて遠慮すべきようなお方ではありません。神に願いたいこと、訴えたいこと、聞いていただきたいことを安心して神の御前に差し出してよいのです。目の前に確かにこの祈りを聴いてくださっている主なる神がおられる。聖霊はそのことを私たちに教えてくださるのです。感じさせてくださるのです。私たちを祈りにおいて大胆にさせてくださるお方、それが聖霊なのです。

すべてに先立ち、神が慈しみ深き御心をもって私たちに身を向けてくださっている。良い物を与えようと心待ちにしてくださっている。だからこそ私たちは安心して求めることができるのです。神が聖霊において導き先導してくださるからこそ、私たちは大胆に祈ることができるのです。父なる神が出会ってくださるからこそ、私たちは安心して探すことができます。父なる神が必ず開けてくださるとの信頼に生きることができるから、安心して門をたたくことができるのです。あの友のように、子供を夜中に起こすことを厭うようなどころの話ではない。起こすどころか、独り子を十字架にかけて失ってまで、私たちを愛し抜き、神の子としてご自身のもとに取り戻そうとされる、それが父なる神なのです。聖霊がこのことを教え、神の慈しみ深さを目の当たりにさせてくださるからこそ、私たちは祈りにおいて、安心して求めることができるのです。

 

TOP