汚れた霊がさまよう
先週の礼拝は講壇交換でありまして、神奈川連合長老会加盟の14教会が同一の個所、コリントの信徒への手紙一15章1~11節の個所から御言葉の説き明かしがなされました。それぞれに御言葉の恵みが与えられたと思います。そして、今日からは再びルカによる福音書から御言葉の学びを続けて行きたいと思います。さて今朝の個所は、二週間前に読んだ箇所の続きになります。前回の11章14節から23節には、主が口を利けなくする悪霊を追い出し、口の利けなかった人の口が利けるようになったこと、群衆が驚嘆する中でそれは悪霊の頭ベルゼブルによって追い出したのだと言う者がいたこと、それで主は悪霊の力によってではなく神の指・神の働きによって追い出したことなどが記されていました。その後に続けて語られたのが24節から26節です。ここには、人から出ていった悪霊は休む場所を求めて砂漠をさまようけれど、出てきた人の所に戻っていくこと、そして、その人の心がきれいに掃除してあり、飾りつけまでしてあったので悪霊は7つの霊を連れて入り込み、その人の状態が一層悪くなるということを主イエス自ら語られたと記されています。主イエスは何を語っているのでしょうか。これは一体、何を意味しているのでしょうか。それは、たとえ悪霊が追い出されたとしても、悪霊が去った後、心が空のままだと、今度はさらに悪い霊がやってきて、人の心の状態を悪くする。だから、悪霊が追い出された後、空になった心に主イエスを迎えなければ、さらに悪霊に支配される。心の内に神を迎えよ、イエス・キリストを迎えよ。そのように主が警告を与え、人々に教えられたことを意味しているのです。ところで、今日の個所では「悪霊」という言葉ではなく、「汚れた霊」という言葉が使われています。しかし、これはルカによる福音書においては「悪霊」と「汚れた霊」は同じものを指しているのです。このようにルカ福音書においては「汚れた霊」と「悪霊」はイコールですから、私たちは今朝の箇所の「汚れた霊」を、先々週の箇所の「悪霊」と同じと見なして良いのです。その「汚れた霊」ないし「悪霊」は、様々な仕方で私たちに働きかけ、私たちを神から引き離そうとするのです。別の言い方をすれば、神のご支配の下から引き離して、サタンの支配の下に入れようとするのです。
汚れた霊のわが家
冒頭24節にはこのようにあります。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む
場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う」。つまり、「汚れ
た霊は追い出されると、砂漠をうろつき、休む場所を探しましたがどこにも見つかりませんでし
た。すると汚れた霊が「出て来たわが家に戻ろう」と言った、と主イエスは話されました。とこ
ろが汚れた霊にとっての「わが家」とは、砂漠や荒れ野などではなく私たち人間の心の内だ、と
主イエスは言われます。汚れた霊にとって私たち、人間の心は居心地の良い「わが家」であり、
のんびりくつろげる「休む場所」なのです。それは、私たちが自分を神から引き離そうとする汚
れた霊を自分自身の内に住まわせやすいということなのです。私たちが神と共に生きるよりも神
から離れて生きようとする者だということです。『ハイデルベルク信仰問答』の問5の答に「わ
たしは神と自分の隣人を憎む方へと 生まれつき心が傾いている」とあるのも、私たちの罪を言
い現わしています。神のみ心に目を向けるよりも、自分の喜びや悲しみに心を奪われてばかりい
る私たちの罪がここに突きつけられているのです。
掃除をして、整えられていた
汚れた霊が戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた、と25節にあります。これは何を意味しているのでしょうか。汚れた霊が出て行った後、その家は掃除され、きれいに整えられたのです。それは、悪霊の支配から解放された私たちが、汚れた霊によってこれまでさんざん汚され、荒らされていた自分という家を、いっしょうけんめい掃除してきれいにし、壊された所を修理して、ちゃんとした家に整えた、ということでしょう。それこそ、悪霊に「わが家」なんてもう言われないように、自分という家をきれいにリフォームして、内装も外観も新しくしたのです。そして表の表札には、以前の苦い経験を反省して、「汚れた霊お断り」という札を掲げたのかもしれません。もう二度と、汚れた霊、悪霊などにこの家を占拠されてしまうものか、という固い決意をもって、私たちは自分という家を整える、掃除され、整えられた家はそういう私たちの姿を表しているのです。
話は変わりますが、念願の大磯教会の牧師館が立派に完成しました。来週は完成記念感謝会を皆さんと喜びたいと思います。計画して2年半ぐらいでよくここまで出来たと私は驚いています。会堂全体の塗装もしたのできれいになっています。建物をきれいに整えるだけでなく、主の教会として福音宣教の拠点として、教会を形成して行きたいと思います。
ほかの七つの霊と共に
汚れた霊が戻って来て見出したのはそのように掃除がされ、整えられた私たちという家でした。「汚れた霊お断り」という札を見た悪霊は、「これは前のように簡単にはこの家に入り込むことはできないな」と考えます。そこで、「出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く」のです。つまり、自分一人ではこのきれいになった家に入り込むことができないので、「自分よりも悪いほかの七つの霊」を助っ人に頼み、その仲間と一緒になってこの家に押し入るのです。そうすればもう怖いものなしです。「汚れた霊お断り」の札はすぐに引きはがされて踏みつけられ、窓は割られドアは破られ、結局この家は、合計八つの悪霊が住み着くまさにホーンテッドマンションになってしまうのです。「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」とはそういうことを語っているのです。
空き家
この話によって主イエスは何を語ろうとしておられるのでしょうか。なぜこのように、前よりもさらに悪くなってしまうようなことになったのでしょうか。そうならないためにはどうすればよかったのでしょうか。これと同じ話がマタイによる福音書の12章43節から45節にあります。そこと読み合わせてみると、この話のポイントがどこにあるのかが見えてくるように思います。そこには、汚れた霊が戻ってきたところにこのように語られているのです。「戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた」。ここに、ルカにはない言葉が一つあります。「空き家になっており」という言葉です。掃除され、きれいに整えられたこの私たちという家は、空き家なのです。そこに住んでいる人が、主(あるじ)がいないのです。それがいけなかったのです。私たちが自分という家をどんなにきれいに掃除をし、内装も外観も美しく整え、そして「汚れた霊はもうお断り」という札を掲げたとしても、その家が空き家で、誰も住んでいなければ、主人がおらず、家を守る人がいなければ、結局その家はより悪い悪霊に占拠されてしまうのです。
挫折してしまう私たち
26節にはこのようにあります。「そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連
れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」。
戻ってきた汚れた霊は、「わが家」と思っていた家がかつてとは違い、きれいに掃除され整えら
れているのを見ました。そこで「自分よりも悪いほかの七つの霊」を連れて戻ってきたというの
です。すると七つの霊は、たちまちその人の内に入り込み、住み着いてしまいました。頑張って
掃除したり整えたりしても、自分の力や頑張りでは太刀打ちできない、より大きな力を持った「より悪い七つの霊」に襲われてしまえばひとたまりもなかったのです。私たちがキリスト者として敬虔に生きようとしても、弱さや欠けを見せずに生きようとしても、そのような私たちの決意や頑張りは、神から引き離そうとする大きな力の前にはまったく無力なのです。
主イエスによる救いに与り、燃えるような決意をして敬虔に生きようと歩み始めても、困難に直面した途端に神に信頼することができなくなってしまったり、様々な誘惑によって神から引き離されてしまったりするのです。自分の力で信仰生活を維持しようと思っても私たちはたちまち挫折してしまうのです。主イエスはこのように話されています。「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」。「前よりも悪くなる」とは、悪霊を追い出してもらったときより悪くなってしまうということです。私たち自身のことを考えるならば、主イエスによる救いに与ったときより悪くなってしまうということです。私たちは教会員が教会から離れてしまうことに深く心を痛め、悲しみを覚えます。なんとか戻ってきてほしいと願います。同時にその方々を教会に呼び戻すことの難しさも痛感します。しかし教会から離れてしまった方が、教会に戻ってくることの難しさはそれ以上のものがあるのではないでしょうか。私たちはその方々が聖霊のお働きによって再び教会に戻ってくることをただ祈り求め続けるしかないのです。
何が足りなかったからなのか
教会から離れてしまう理由はそれぞれに異なりますからすべてを同一に語ることは慎まなくて
はなりません。しかし私たちの信仰の歩みにおいて、なぜ「前よりも悪くなる」ということが起こるのでしょうか。なぜ主イエスによる救いに与り神のご支配に入れられたのに、再び神から引き離されてしまうことが起こるのでしょうか。自分の力が足りなかったから、頑張りや努力が足りなかったから敬虔に生きることができなくなり、見栄えの良い知識やスキルをたくさん身につけられなかったから、自分の弱さや欠けを隠すことができなくなったということなのか。主イエスは信仰生活における努力や頑張りが足りないと、私たちは前よりも悪くなってしまいかねないと警告されているのでしょうか。
自分自身が主人となっている
そうではありません。むしろそうやって自分の力で頑張って敬虔に生きようとし、知識や教養
やスキルで自分を飾って、自分の弱さや欠けを隠そうとすることが、そもそも間違っている、と
言われているのです。頑張ったり努力したりすることが間違っていると言うなんて、ひどいこと
を言うと思われるかもしれません。けれども自分の力で頑張ったり努力したりしてなんとかしよ
うとすることは、結局、自分の人生の主人を自分自身としている、ということにほかならないの
です。主イエスによる救いに与り、神のご支配の下に入れられて生きるとは、自分の人生の主人
が自分ではなく神になるということです。主イエスは私たちに「あなたたちは汚れた霊に『わが
家』と呼ばれるような存在なのだ」、「汚れた霊がくつろげるほど、あなたたちは神から引き離
されてしまう存在なのだ」と言われました。私たちはそのような本当に弱い、欠けのある者であ
り、救われてもなお罪を犯し続け、神に従うよりも神に背き、神と共に生きるより神から離れよ
うとする者です。そのような私たちが自分の人生の主人であろうとするならば、たちまち神から
引き離されてしまうに違いないのです。だから主イエス・キリストを主人としてお迎えして、住
んでいただく必要があるのです。私たちが主イエスによる救いに与り、神のご支配の下で生きる
とは、自分の心の内に主イエス・キリストに住み続けていただくことなのです。私たちの弱さや
欠けを知り尽くしてくださっている主イエスが心の内に住んで、共にいて支え守ってくださるな
ら、私たちは人の目を気にして、見栄え良く飾って弱さや欠けを隠そうとする必要はないので
す。イエス・キリストから離れてはならないのです。
神の言葉を聞いて守る
それでは、主イエスに私たちの心の内に住んでいただくためには、どうしたら良いのでしょう
か。このことが27節、28節で語られています。27節で、ある女性が主イエスに「なんと幸いな
ことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と「声高らかに言った」のに対し
て、28節で主イエスは「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われて
います。神の言葉を守るとは、神の掟を守るということに留まりません。私たちが神の言葉を聞
いて守るとは、聞いた神の言葉を自分の内に保ち続けることです。羊の群れの番をするように、
与えられたみ言葉から目を離さず、そのみ言葉と共に生きることです。共にお読みした旧約聖書
詩編1編2節、3節にはこのようにあります。
「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない」。
私たちは神の言葉を愛し、昼も夜も口ずさみます。それが、神の言葉を聞き、それを守るということにほかなりません。そのようにして神の言葉を聞き、それを守る私たちの心の内に主イエスが必ず住んでくださるのです。「流れのほとりに植えられた木」が「ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない」ように、神の言葉を保ち続け、主イエスが自分の内に住んでいてくださることによって、私たちも主イエスに従う者へ変えられるという実を結ぶのです。自分の力や頑張りではなく神の言葉に根ざしているからこそ、しおれてしまうことのない生き生きとした信仰が与えられ続けるのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって救われ、神のご支配に入れられている私たちは、その救いの良い知らせを告げる神の言葉を聞き続け、それをしっかり保ち続けます。そのことによって主イエス・キリストは確かに私たちの心の内に住み続けてくださり、私たちの人生の主人となってくださり、いついかなるときも私たちを導き、支え、守っていてくださるのです。お祈りします。