はじめに
牧会手帖というものが日本基督教団から毎年出版されていていますが、その年間行事の中に6月24日が日本基督教団創立記念日と記載されています。私たちが属している日本基督教団は、1941年、和暦で云うと昭和16年の6月24日に日本国内のプロテスタント教派の33の教派が合同して成立したのです。第二次世界大戦は1939年からヨーロッパで始まり、1941年12月8日に日本の真珠湾奇襲から日本が参戦し、太平洋戦争が始まった年です。そういう状況の中で、政府の要請というよりは圧力の中でプロテスタント合同教会が出来たのです。そして戦後は、日本基督教団から出た教派も多くありますが、1954年に日本基督教団信仰告白が制定され、新しく出発しているわけですが、戦後の歩みの中で社会問題や政治問題もからんで、伝道や聖餐に対する考え方の違いなどから、いわゆる社会派と教会派の対立が現在も続いています。そして、このような宗教における対立は、キリスト教だけでなく現在の世界の状況、ウクライナとロシアやパレスチナだけでなく世界各地で起きています。まさに神から離れた人間の罪といえます。そしてこのことは、2千年前の主イエスが誕生し宣教を開始されたユダヤでもありました。ユダヤ教の中においても教派間の争いはありました。今朝の聖書の個所はファリサイ派と主イエスとの論争です。主イエスは厳しくファリサイ派を批判しています。早速聖書から御言葉の恵みを与えられたいと思います。
ファリサイ派の驚き
ファリサイ派は、紀元前1世紀ごろ民衆の中から生まれ、律法を生活の中に生かす解釈を施し、その解釈を実際に実践した宗教者たちでした。あるファリサイ派の人が主イエスを自分の家で催す食事会へと招待しました。今朝の箇所の冒頭37節にこのようにあります。「イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた」。今朝は44節までを読みますが、この話は54節まで続きます。前半の37-44節では、主イエスのファリサイ派の人たちへの非難が、そして後半の45-54節では律法学者への非難が語られています。この後半については、次週の礼拝でお話しします。これまでも主イエスは度々ファリサイ派の人たちを非難してきましたから、彼らは主イエスに対して良い感情を持っていませんでした。そのため彼らは主イエスが間違ったことを言ったり行ったりしていないか、主イエスの発言と振る舞いに注目してきたのです。私たちは主イエスが敵対関係にあるファリサイ派の人からの招待を受けたことに疑問を感じます。わざわざ自分に対して良い感情を持っていない人の家に行って一緒に食事をしなくても良いのに、と思うのです。それとも主イエスはファリサイ派の人たちを非難するための良い機会だと思って招待を受けたのでしょうか。
清さを求める信仰
確かに主イエスはこの箇所で、ファリサイ派の人たちにとても厳しい言葉を投げかけています。42、43、44節で、繰り返し「あなたたち(ファリサイ派の人々)は不幸だ」と言われていますし、40節でも彼らを「愚かな者たち」と呼ばれています。
このように主イエスがファリサイ派の人に裁きを告げるきっかけとなった出来事が38節に語られています。主イエスがファリサイ派の人の家に入り食事の席に着いたときのことです。「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。」とあります。「不審に思った」と訳されている言葉は、単純に「驚いた」という意味の言葉です。彼は主イエスが食事の前に身を清められなかったのを見て驚いたのです。「身を清める」と言われていますが、手を洗うことが身を清めることであったのです。このファリサイ派の人の驚きは、手を洗わないで食事をするなんて不衛生だ、という驚きではありません。私たちはコロナ禍にあって感染対策のためにこまめな消毒を心がけてきましたが、ここではそのような衛生上の問題が語られているのではなく、宗教上の問題、信仰上の問題が語られているのです。ファリサイ派の人たちの信仰にとって「昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってから」食事をすることは決定的に大切なことでした。ユダヤ教にはオルトドックス派、改革派、保守派の三つの流れがあるようですが、当時のユダヤ教も大きく三つのグループに分かれていたようです。その中でファリサイ派は、神殿ではなく村や町での日常生活の中で、律法をしっかり守ることを重んじていました。律法そのものだけでなく、その解釈から生み出された様々な細かいルールも厳密に守っていたのです。彼らにとって食事の前に手を洗うことは、律法と「昔の人の言い伝え」を厳密に守ることであり、自分たちが清くあるために決しておろそかにしてはならないことだったのです。彼らは律法を厳密に守って自分たちが清くあることこそ、信仰において最も大切なことだと思っていました。そのような彼らにとって、主イエスが食事の前に手を洗わなかったことは驚くべきことであり、見過ごすことのできないことだったのです。
ファリサイ派の不幸
そのように驚いているこのファリサイ派の人に主イエスが語った言葉が39節から44節です。ここには、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」ということが、42、43、44節に三度繰り返して語られています。これは「かわいそうに」という同情ではなくて批判です。主イエスはファリサイ派の信仰のあり方を厳しく批判なさったのです。その批判のポイントは最初の39節に示されています。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」。外側ばかりをいっしょうけんめいきれいにするが、内側は汚れに満ちているのがファリサイ派の人々の姿だと主イエスは言われたのです。食事の前に身を清めることにこだわることを主イエスはそのように、内側をないがしろにして外側ばかりをきれいにしようとすること、と捉えておられるのです。そしてこれと同じような批判が42節以下に繰り返されていきます。42節には、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ」とあります。自分の得た収穫の十分の一を神に献げるべきことが律法に定められています。主イエスはこの定めを決してどうでもよいとか、こんなものは守らなくてよいとは言っておられません。「もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが」とあります。収入の十分の一を神様に献げるというのは、私たちにおいても、神への捧げもの、献金について考える上での基準となることです。しかしここで主イエスはファリサイ派の人々が、「薄荷や芸香やあらゆる野菜」の十分の一を量って献げながら、「正義の実行と神への愛」をおろそかにしていることを問題にしておられるのです。収穫の十分の一を献げるという掟を厳格に守っていても、「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」のでは何にもならない、それでは外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じだ、ということです。また43節には、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」とあります。会堂で上席に着くとか広場で挨拶されるというのは、人々に尊敬され、一目置かれるということです。神の教えを語っている人に対してそういうことが自然に起ってくることはあるでしょう。しかしここでは、そういうことを「好んでいる」とあります。つまり、人に褒められ、尊敬され、重んじられることが、結果ではなくて目的になっているのです。つまり彼らファリサイ派は神に従い仕える生活を教え、神にこそ誉れ、栄光を帰すことを主張していますが、それは実は建前でしかなくて、本音においては自分の誉れ、栄光、自分が人から尊敬され褒められることを求めているのです。それは外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じです。ファリサイ派の人々は、外側においては神を重んじてその掟に従っているように見えるが、内側においては、神との関係における本当に大切なことをないがしろにし、むしろ自分の誉れを求めているのです。そして彼らは他の人々をもそのような生き方へと引き込もうとしています。そのことが44節に、一つのたとえによって語られているのです。「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」。律法には、死体に触れた者は汚れる、という教えがあります。それゆえにユダヤ人たちにおいては、死体を葬る墓というのは汚れた場所でした。だから間違って墓の上を歩いたりして汚れを身に受けるようなことがないように、墓にはちゃんと「ここは墓だ」と分かるような目印を着けたのです。ところがここには「人目につかない墓」とあります。人目につかないのでそこに墓があることが分からずにその上を歩いてしまって汚れた者になってしまう。つまり「人目につかない墓」とは、見た目には汚れていないように見えて実は人を汚すものを表すたとえです。ファリサイ派の人々は、神に従って生きる生活を教えているように見えて、実は神ではなくて自分の誉れのために生きる人間を作り出しているのです。「内側は強欲と悪意に満ちている」というのはそういうことです。別にファリサイ派の人が私利私欲に走り、神を利用して金儲けをしていたわけではありません。しかし彼らは、自分の清さ、正しさを求めることによって、神よりも自分の栄光を追い求め、人よりも立派な者になることに誇りと喜びを見出すような生き方に陥っていたのです。
正義の実行と神への愛
今朝私たちに与えられた旧訳聖書の御言葉は、アモス書5章14~20節までです。アモス書が記されたのは、紀元前8世紀です。北イスラエル王国も南ユダ王国もとても繁栄していた時代でした。国が亡びるなどとは、王を初め、誰も予期していませんでした。でもすでに内部崩壊が始まっていたのです。その意味では、今日の日本やアメリカにも通じるものがあるような気がいたします。国が繫栄するということは、しかしながら人々の心の緊張感が鈍くなり、堕落を招く結果となりました。田舎で羊飼いをしていて神に召し出されたアモスは、このようなイスラエルの上流階級の人々に対して、「主なる神の仰せ」として、神の正義を主張し、その激しい怒りと厳しい審判を預言したのです。14節をもう一度お読みします。
善を求めよ、悪を求めるな
お前たちが生きることができるために。
そうすれば、お前たちが言うように 万軍の神なる主は
お前たちと共にいてくださるだろう。
そして、5章24節に有名な次の言葉を言うのです。
正義を洪水のように
恵みの業を大河のように
尽きることなく流れさせよ。
すばらしい言葉です。この言葉は、義の預言者、正義の預言者と呼ばれるアモスの信仰の根本を貫くものでありました。ですから、神の正義と公道を失ったイスラエルの運命は滅亡だと、アモスは神の審判を宣言しました。物質や水の飢饉も恐ろしいですが、それよりも重大なことは、神の言葉を聞くことの飢饉だと、アモスは言うのです。これは北イスラエル王国が、国の外面的な政治的安定と経済的繁栄に満足してしまって、人間の本当の幸福を無視し、真剣に神の言葉を聞くことがなくなりつつあることに対する痛烈な警告でありました。あまりに激しい預言のために、アモスは支配者たちの反感を買い、国を追放されることになります。その後のアモスがどうなったのかは何もわかりません。しかし彼の主張した「神の正義」の預言は、イスラエルの預言者の良心として、いつまでも人々の心に訴え続けることとなります。そして彼の語ったイスラエル滅亡の預言は、30年後の紀元前721年に首都サマリアの陥落によって現実のものとなりました。
こういう表面的な繁栄の陰で、腐敗がはびこり、内部崩壊が少しずつ始まっている、というのは、現代の私たちの世界、日本やアメリカの社会についてもあてはまるのです。アモスは、現代の私たちに向かっても、警告を発しているのではないでしょうか。貧しい人たち、力をもたない人たちを踏みにじるのではなく、繁栄をみんなで分かち合うことが求められている。そうしたことを、もう一度心に留めることは大事なこと、そして私たち自身が内側から豊かになる道を指し示していると思います。
だから主イエスはファリサイ派の人たちに、「正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ」と言われたのです。土地を持たないレビ人や経済的に弱い立場に置かれている人たちを支え守ろうとする「十分の一の献げ物」の規定は、まさに正義が行われ公正な社会が実現するための規定です。この目的をないがしろにすることは、公正な社会の実現という神の御心をないがしろにすることであり、神の御心をないがしろにするとは、神を愛することをおろそかにすることにほかなりません。彼らは神の御心を重んじ、神を愛するよりも、人から認められ、称賛されることを求めたのです。「十分の一の献げ物」の規定において、神が根本的に求めておられるのは「正義の実行と神への愛」です。このことこそファリサイ派の人たちが行うべきことであったのです。
クリスチャンは現代のファリサイ派か
主イエスのファリサイ派の人たちに対する痛烈で厳しいお言葉を、私たちは他人事のように聞いているわけにはいきません。ファリサイ派の人たちは、自分の外側ばかりを気にして自分の内側をないがしろにしている、どうしようもない人たちだ。主イエスに批判されて当然だ、などと思っているならば、私たちは大きな誤りを犯しているのです。なぜならこのファリサイ派の姿は、私たちクリスチャンの姿でもあるからです。現代のファリサイ派とは、私たちのことにほかなりません。しかし私たち自身も、ほかの人からどのように見られているか、どのように思われているかを気にして、自分の外側ばかりをきれいにしているのではないでしょうか。そのとき私たちの心の内には、人から良く見られたいという強い欲が満ちているのです。ほかの人からどのように見られているかを気にするならば、私たちはほかの人の言葉や行いも気になるようになります。そしてあの人の言葉は、あの人の行いはクリスチャンにはふさわしくない、と批判したり裁いたりしてしまうのです。そのような私たちに主イエスは「不幸だ」と言われます。そのように生きる私たちは「災い」だと言われるのです。「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか」と言われるのです。ここで主イエスは神の創造のみ業を見つめておられます。神は人間の外側だけを造られたのではなく内側も造られたのです。私たちは自分の力で神からの愛を獲得するのではありません。一方的な恵みによって神からの愛が私たちに与えられているのです。独り子を十字架に架けるほどの神からの愛が、私たち一人ひとりに与えられているのです。この神からの愛を通り過ぎるのではなく受け入れることによってこそ、私たちの心の内に巣くっている強欲と悪意が追い出され、心の内が空っぽになります。そしてその空っぽになった心の内に神からの愛が注がれるのです。そのとき私たちは、自分の心の内に注がれた神の愛を周りの人にも届けていくことができるようになります。
主イエスは、ファリサイ派の人を裁くために彼の家に行ったのではありません。主イエスはファリサイ派の人たちの生き方を、そして私たちの生き方を「不幸だ」、「災いだ」と嘆かれ、自分の外側ばかりをきれいにするのではなく、自分の内側に神からの愛を満たして生きるよう招いてくださっているのです。主イエスがファリサイ派の人の招きを受けられたのは、主イエスこそが、そのファリサイ派の人を招くためにほかならないのです。主イエスは、私たちが人から良く思われたいという強い欲と人を批判し裁こうとする悪で心を満たして生きるのではなく、神からの愛に満たされて生きるよう招いておられるのです。お祈りします。