8/3説教「重荷を負う者、負わない者」

律法の適用を指導する専門家
日本でテレビ放送が始まって70数年になると思いますが、日々の生活においてテレビの影響は大変大きなものがあります。ニュースやワイドショーや音楽番組やいろいろありますが、先日のロシア、カムチャッカ沖の地震による津波の報道を見てもテレビの存在は大きいと思いました。どのチャンネルでもほぼ一日中津波の情報が流れていました。スマホからも津波警戒情報が鳴り響きました。ある意味、テレビやスマホでメディア統制されると怖いとも思いましたが。そしてテレビのワイドショーなどでよくコメンテーターという人がニュースや様々な問題の解説をしています。経済や社会のいろいろな分野の解説をしてくれます。中にはタレント出身の身近な解説もあります。
ところで色々なことをよく知っている人のことを“生き字引”というたとえで表すことがあります。生きている辞典、まるでその人が辞典そのものでもあるかのように、何でもよく知っている専門家のことです。そういうコメンテーターもいます。その話の流れで云うと、今朝のルカによる福音書11章45節から54節の聖書箇所に出て来る「律法の専門家」というのは、さながら“生きている律法”“歩いている律法”とたとえても良いかも知れません。神の掟である律法をよく知っている。律法の巻物を開かなくても、律法の専門家に聞けば、すぐに分かる。否、ただ単に律法の内容をよく知っているというだけではないのです。この律法の内容は、今の時代、こういうふうに生活に適用すると良い、ということまで研究し、人に教えることができた人々です。律法とは、神がユダヤ人に与えた掟です。ユダヤ人の先祖たちが、モーセに導かれてエジプトの国から、奴隷の重荷から脱出した際、荒れ野にそびえるシナイ山で、モーセを通して与えられた「十戒」。それと専門家たちが考え出した細かな規定を併せて言います。当時、律法には613もの細かい適用規定があったと言います。律法を具体的にどのように守り行うか、専門家たちが考え出した規定です。
ところで、今朝の個所の前、先週の説教ではファリサイ派の人たちのことを主イエスが批判したことを読みました。ファリサイ派の人たちは、日々の生活の中でモーセの律法を厳密に守ることを重んじ、そのことを民衆に指導していました。しかし少し考えると分かるように、日常生活の中で律法を厳密に守ることは簡単なことではありません。日々色々なケースに直面する中で、個別のケースにおいてどの律法が関係しているのか分からないし、なにをどこまでしたら律法に違反するのかもなかなか判断できないからです。たとえば十戒の第四の戒めに「安息日には、いかなる仕事もしてはならない」とあります。しかし一日中、まったくなにもしないで過ごすことはできませんから、なにをどこまでしたら「いかなる仕事もしてはならない」という戒めに違反してしまうのか、ということが大きな問題となってきます。ファリサイ派の人たちが民衆を指導していく中で、当然、民衆から「こういう場合はどこまでなら律法を守っていることになるのか」というような質問が出たに違いありません。そのような質問に答えられるための知識をファリサイ派の人たちに提供していたのが律法の専門家でした。律法の専門家の知識と判断に基づいて、ファリサイ派の人たちは個別のケースにおいてどうすれば厳密に律法を守れるか教えることができたのです。つまり律法の専門家は、ファリサイ派の活動の理論的な裏づけを提供していたことになります。このように両者は緊密な関係にあり、律法の専門家の多くはファリサイ派に属していたようです。ですから律法の専門家にとって、ファリサイ派の人たちの行いが非難されることは、間接的ではあっても自分たちが非難されていることと同じでした。ですから、ファリサイ派に対する主イエスの非難は律法の専門家である自分たちへの侮辱に他ならないと受け取ったのです。つまり前回の箇所37~44節で主イエスが話されたことを聞いた律法の専門家の一人が主イエスに「そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになる」と言ったのです。「そんなことをおっしゃれば」の「そんなこと」とは、主イエスがファリサイ派の人に対して言われた厳しい非難のことです。心の内には人から良く思われたいという強い欲が満ちていて人の目ばかりを気にしている。人から尊敬され、重んじられることを好み、神に栄光を帰するのでなく自分自身に栄光を帰そうとしている。そのようなファリサイ派の人たちは「不幸だ」と主イエスは言われたのです。「私たちをも」とは、このファリサイ派と共に私たちをも、ということです。主イエスがファリサイ派に対してお語りになった言葉は、自分たち律法の専門家をも侮辱するものだ、と彼は言っているのです。

背負いきれない重荷
この人の言葉を受けて主イエスは、律法の専門家たちに対しても、「あなたたちは不幸だ」という言い方で批判を語っておられます。それが46節から52節です。先ず46節には、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」とあります。ここに、律法の専門家に対する主イエスの批判、あるいは怒りと言ってもよい思いが示されています。主イエスが怒っておられるのは、「あなたがたのおかげで、律法は人々の重荷となってしまった」ということです。律法は、旧約聖書において神がイスラエルの民にお与えになったみ言葉であって、その中心が「十戒」ですが、それはもともとは決して民の重荷となるようなものではなかったのです。主なる神によってエジプトの奴隷状態から解放され、救われたイスラエルの民が、その恵みに感謝して、神の民として生きていく、その恵みへの応答の生活の指針として与えられたものだったからです。つまり律法は重荷であるどころか、神の恵みのみ言葉だったのです。ところが律法のその本来の意味はいつしか忘れられて、これを守ることによって救いを得ることができる、という条件のように受け取られるようになっていきました。律法が救いのための条件となっていくと、自分はその条件を満たしているだろうか、律法をきちんと守れているだろうか、ということが問題となります。一生懸命に守っているつもりでも、自分が知らない戒めがあって、知らずにそれを破ってしまうかもしれません。だから律法の隅々までよく知っていないと不安になるのです。けれども当時は、律法を記した聖書を自分で持つことができなかった時代です。自分で読んで律法の内容を確認することは出来なかった。それゆえに、「これは律法違反になるかならないか」「このことについて律法はどう教えているのか」を判断してくれる律法の専門家が必要となったのです。そのようにして律法の専門家が生まれ、彼らが人々の生活を律法に照らして「よい」とか「悪い」と判定し、また「律法に従うためにはこうしなければならない」と命令するようになったのです。その結果律法は、神への感謝の生活を導く恵みのみ言葉から、破ってはならないといつもビクビクしていなければならない掟となっていきました。そのような掟はもはや重荷でしかありません。律法の専門家は、律法を重荷として人々に負わせる働きをしたのです。しかもそれは「背負いきれない重荷」だと主イエスは言っておられます。恵みに応えて生きる生活へと人々を励まし導くために与えられた律法が、守らなければ救いにあずかることができない掟になってしまったのです。それは「背負いきれない重荷」になるのです。律法の専門家たちは、人を裁き、批判し、気落ちさせるだけで、神の民として生きることの喜びや慰めや励ましにはならないのです。

預言者を殺す
47節には「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ」とあります。これはどういう意味でしょうか。律法の専門家たちが、自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているとは、どういうことでしょうか。前の口語訳聖書では、「墓」という言葉ではなく「預言者たちの碑を建てるが」と訳しています。彼ら律法の専門家たちの先祖が昔の預言者たちを殺したのだと主イエスは言われたのです。預言者とは、神のみ言葉を預かってそれを人々に語り伝えた人々です。神はこれまでに多くの預言者を立て、お遣わしになりました。しかしその多くはその時代の人々に受け入れられず、迫害されたり殺されたりしたのです。49節に引用されている、「わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する」という言葉はそのことを語っています。預言者たちを殺す、それは神のみ言葉を拒み、それに聞き従わないということです。それをしたのはあなたがたの先祖だ、というのは、あなたがた律法の専門家たちが今していることは、昔預言者を殺した人々のしたことと同じだ、ということを意味しています。律法を人間の掟にしてしまい、恵みのみ言葉を人々の重荷にしてしまっているあなたがたは、自らも神のみ言葉に聞き従わず、またそれを人々からも奪い取っている、それは預言者を受け入れずに殺した昔の人々のしたことと同じだ、と主イエスは言っておられるのです。
48節には「こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである」とあります。律法の専門家たちは、殺された預言者たちを記念しその業績を偲ぶ墓あるいは記念碑をあちこちに建てていたのでしょう。そのようにして自分たちが昔の預言者たちを尊敬していることを示していたのです。しかしそこには大きな欺瞞があります。預言者たちは、神のみ言葉に聞き従うことを求めたのです。だから預言者たちを記念するなら、自分も神のみ言葉にしっかりと聞き従わなければならないはずです。彼らはそれをせずに、感謝の生活へと人々を導き励ますみ言葉であるはずの律法を本来の意味からねじ曲げ、人々の心をみ言葉から引き離すようなことをしておきながら、預言者の記念碑を立てています。それは真実ではない。欺瞞であって、あなたがたはむしろ預言者たちを殺した者たちの業をこそ受け継いでいるのだ、と主イエスは言っておられるのです。

アベルの血からゼカルヤの血まで
主イエスは50節、51節でこのように言われています。「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」。主イエスは「天地創造の時から流されたすべての預言者の血」と言われ、その血は、「アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ」と言われます。創世記4章には、最初の人間アダムとその妻エバに与えられたカインとアベルの兄弟の物語があり、兄カインが弟アベルを殺したことが語られています。この出来事は人類最初の殺人事件でした。アベルは預言者とは言えないかもしれません。しかしここで主イエスはかなり広い意味で預言者という言葉を使っているのだと思います。カインとアベルの物語の中で、「主はアベルとその献げ物に目を留められた」(4章4節)とありますが、神が目を留められたアベルが殺され、その血が流されたことに、広い意味での預言者が流した血を見ているのではないでしょうか。一方ゼカルヤは、今朝の旧約聖書のみ言葉として読みましたが、歴代誌下24章20節から22節に登場する祭司ヨヤダの子で、ユダの王ヨアシュの時代に、主なる神を捨て、偶像に仕えようとした王とユダの高官たちを神に立ち帰らせるために、聖霊によって神の言葉を語りました。しかし王の命令によってゼカルヤは主の神殿の庭で殺されたのです。主イエスが「天地創造の時から流されたすべての預言者の血」と言われ、その血がアベルの血からゼカルヤの血に及ぶと言われるとき、主イエスが見つめておられるのは、旧約聖書全体において流された、広い意味での預言者の血ではないかと思います。いや、ゼカルヤの後の時代にも殺された預言者はいるではないか、と思われるかもしれません。確かにその通りです。しかし私たちの聖書では旧約聖書がマラキ書(1502頁)で終わっているのに対し、ヘブライ語聖書、つまりユダヤ教の聖書では歴代誌下で終わっているのです。つまりアベルの血からゼカルヤの血まで及ぶとは、ヘブライ語聖書では創世記から歴代誌まで及ぶということであり、それは旧約聖書全体を意味していることにほかならないのです。主イエスの時代の聖書はこれです。
アベルの血からゼカルヤの血まで及ぶと言われるとき、そこで見つめられているのは、イスラエルの民の歴史を越えた人類の歴史ではないでしょうか。神がご自分に似せてお造りくださった人間が、神に背き、神が立て遣わした者たちを受け入れず殺してきた、その人類の罪の歴史が見つめられているのです。創世記から歴代誌に至る旧約(ヘブライ語)聖書全体は、イスラエルの民の歴史だけでなく、主イエス・キリストが来られるまでの人類の歴史全体を見つめているのです。

重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい
主イエスは、人の言葉を、人の心の声を聴くことの名人でした。ご自分を基準にして正義で裁くのではなく、律法の重荷に苦しみ、あえいでいる人の痛み、悲しみを聞きとって、癒(いや)すこと、救うことのできる方でした。
人の魂を癒し、救う鍵、人を喜びと平安へと入れる「知識の鍵」、律法の中に込められているその鍵を、主イエスは“正義”ではなく“愛”だと受け取っておられたようです。
「『心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」のです。(マタイ22章37〜40節)。
その主イエスが、律法の真髄である神の愛を受け止めて、私たち一人ひとりを愛してくださいました。正しいと分かっていてもできない、やめられない。その罪の重荷にあえぐ私たちの魂の声を聞いてくださいました。その主イエスが私たちを招かれています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11章28〜29節)。有名な言葉です。大磯教会のホームページにも書いています。多くの教会が表題に掲げている聖句です。主イエスが、“わたし”のことを分かっていてくださいます。柔和と謙遜によって、私たち一人ひとりの重荷を、共に負ってくださいます。自分を正義の基準として人を裁かない柔和と謙遜、それはまさに“愛”です。
そして、主イエスに愛されている私たちは遣わされます。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。‥‥‥互いに重荷を担いなさい」(ガラテヤ6章1〜2節)。
主イエスの愛、柔和に応えて、私たちも柔和な心で、互いに重荷を担い合う。そこに幸いが生まれます。安らぎが生まれます。教会が生まれます。お祈りします。

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