偽善に注意しなさい
今朝もまたルカによる福音書から御言葉の豊かな恵みに与りたいと思います。今日取り上げるの
は、ルカによる福音書12章1節から7節です。冒頭の1節の始めに「とかくするうちに、数えき
れないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。」とあります。「とかくするうちに」
という言葉は、これまでの所とのつながりの中でこれからのことが語られていくことを示していま
す。口語訳聖書では「その間に」となっていました。主イエスが直前に何を語ったかについては、
11章37節から53節に記されていることですが、主イエスがあるファリサイ派の人から食事の
招待を受け、その席に着いておられた時の話です。その席で主イエスは、先ずファリサイ派の人々
に対して、厳しい批判をお語りになりました。次いで律法の専門家たちに対しても同じく厳しい批
判をなさいました。その結果が53、54節です。「イエスがそこを出て行かれると、律法学者や
ファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題で主イエスに質問を浴びせ始め、何か言
葉じりをとらえようとねらっていた」とあります。「とかくするうちに」という書き出しは、この
ように律法学者やファリサイ派の人々の主イエスに対する敵意が高まっていく中で、という背景が
あるということです。
群衆が集まって来て
12章1節が語っているもう一つのことは、「数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏
み合うほどになった」ということです。ファリサイ派や律法学者という当時のユダヤ人の宗教的指
導者たちの間には主イエスに対する敵意が高まっていますが、一般の民衆たちには、主イエスの人
気は衰えていませんでした。と言ってもそれはまさに「人気」であって、彼らは主イエスの教えに
聞き従おうとしていたわけではありません。そこが「群衆」と「弟子」の違いです。群衆の中には、
主イエスこそ救い主であるに違いないと思って集まっていた人もいたでしょうが、そればかりでは
ありません。今噂になっているイエスとはどんな人か見てみたい、という野次馬的な思いの人もい
たでしょう。またファリサイ派や律法学者たちがイエスに激しい敵意を抱いていることを聞いて、
興味を持ってイエスを見に来た、という人もいたでしょう。そのような群衆が数えきれないほど集
まって来て周りを取り囲んでいる、その中に、主イエスと弟子たちは置かれているのです。
偽善に注意しなさい
主イエスが弟子たちに語ったのは「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」ということ
でした。パン種とは酵母菌のことです。これを入れるとパンはふっくらとしておいしいのですが、
少しで目立たないけれども全体を変えていくのがパン種です。しかし古いパン種を入れると全体が
すっぱくなり食べられません。今のようにパン発酵に適したイースト菌のように純度が良くなかっ
たからです。少しでも入ると全体が悪くなるものを指しています。主イエスはそれが、人々を間違
った信仰へと導くファリサイ派の教えをたとえるものとして用いられているのです。その「ファ
リサイ派の人々のパン種」として見つめられているのは彼らの「偽善」です。ファリサイ派の人々
の信仰の根本には偽善がある、主イエスはそのことを11章39節でこのように言っておられまし
た。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強
欲と悪意に満ちている」と。外側はきれいにするが、内側には強欲と悪意が満ちている、それがま
さに「偽善」ということです。ファリサイ派の人々のそういう偽善を主イエスは厳しく批判し、そ
のパン種に影響されないようにと弟子たちに注意しておられるのです。1節はそのように理解する
ことができます。そして2、3節もその教えの展開として読むことができます。2節の「覆われて
いるもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」、この教えを
今の偽善への批判に基づいて読むならば、外側をどんなにきれいに取り繕っていても、心の中の汚
れ、強欲や悪意は必ず外に現れて来る、隠されている悪はいつか必ず露見するのだ、だから内面を
こそ清め、整えなさい、ということになるでしょう。3節の「だから、あなたがたが暗闇で言った
ことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」とい
うことも同じように理解することができます。
信仰を隠す偽善
ファリサイ派のパン種が「偽善」を意味しているとするならば、4節以降では主イエスは何を語
っているのでしょうか。ここで主イエスが弟子たちに語っておられることは何でしょうか。体を殺すことしかできない人間を恐れてしまい、迫害する者たちを恐れ、殺されることを恐れて、自分の信仰を隠してしまうことがないように、ということです。「あなたがたは信仰のゆえに迫害を受け、殺されるかもしれない。しかし迫害する者たちは、体を殺すことはできても、それ以上何もすることができないのだから、そういう者たちを恐れるな。むしろ本当に恐れるべき方は、肉体の死の後に、私たちを地獄に投げ込む権威を持っておられる方である」、これが、4節以下における主イエスの教えです。これは非常に厳しい教えのように思います。
ここでは、主イエスが警告している偽善という言葉は何を意味しているのでしょうか。主イエスは弟子たちに、迫害する者たちを恐れ、殺されることを恐れて、自分の信仰を隠してしまってはならない、と言っているようです。現在の日本においてキリスト者が信仰者であるゆえに迫害を受けることはありません。しかし、過去においてはありましたし、世界各地で宗教の対立によって、それだけではなく経済的、政治的な様々な要因によって迫害があり、差別があり、戦争にもなっています。内側にある信仰を隠して、信仰者ではないかのように外面を取り繕ってしまうこと。言い換えれば、信仰を自分の内面のみの事柄にしてしまい、それを外に現し、証ししようとせずに隠してしまうことの偽善ということです。主イエスがここで「偽善」と呼んでおられるのはそのことなのです。つまりファリサイ派の人々は内側の汚れを隠して外側をきれいにするという偽善に陥っていましたが、ここでも、弟子たちは、内側の信仰を外に現さず隠して、信仰者ではないように振舞ってしまうという偽善に陥る危機の中にあるのです。主イエスはこう言われます。「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」
群衆の怖さ
今、8月6日、9日の広島・長崎の原爆の日、そして15日の終戦記念日を前にしてテレビでは戦争と平和の番組が連日特集されています。先日の池上彰が出ていた番組でも、多くの考えさえられることがありました。戦前から、戦中、戦後の映像を見ながら解説が入るという番組でしたが、戦前の国防婦人会の映像が出ていました。出征する兵士におにぎりの炊き出しをしたり、国土防衛の訓練もしていました。ある有名な芸能インタビューアーの女性が証言していました。当時、母親が積極的に国防婦人会の活動に毎日奉仕していた。女性でも国に奉仕できる喜びということもあったようだ、と言っていましたが、解説で、参加しないと「非国民」と言われてしまう圧力があったと言っていました。いったん戦争に突入してしまうとだれも止められない、流れに逆らえない空気ができるのです。国民みんなが、という圧力にはなかなか逆らえないのです。また、国際連盟を脱退した時の松岡洋祐(まつおか ようすけ)日本全権の国際連盟脱胎の時の映像もありましたが、13歳で渡米し差別とも闘いメソジスト教会に影響を受け、日本の教会で受洗したクリスチャンでありました。その後、衆議院議員になり、外務大臣にもなりました。国際連盟総会での最後の演説では120分原稿無しで演説したと言われますが、脱退を宣言し退場するときの姿は勇ましい中に寂しいものがあります。松岡氏は帰国し、自らの外交の失敗を天皇に謝罪するべく、皇居の近くで、土下座して謝ったようです。しかし、国民からは国際連盟脱退のニュースは熱狂的に支持され英雄視されたのです。国力でアメリカの十分の一しかない日本が戦争に勝てるわけがないと分かっていた人だと思います。国民は時代の流れに翻弄されて動くのです。主イエスの十字架の受難の時も、エルサレム入場の群衆のホサナ、ホサナの歓呼の叫びの、その数日後にイエスを殺せの叫びとなったのです。国民、群衆の怖さも感じるのです。
危機の中にある弟子たち
弟子たちは主イエスと共にファリサイ派や律法学者からの敵意の中にあります。主イエスに対する敵意は当然弟子たちにも向けられています。ユダヤ人の指導者たちによる迫害の危機の中に彼らはいるのです。しかも彼らの周囲には数えきれないほどの群衆が集まって来て、様子を伺っています。多くの人々の目が彼らに注がれているのです。そのような中で弟子たちは、厳しい問いにさらされています。人々の前で、主イエスに従う信仰をはっきり言い表し、迫害をも恐れずに歩むか、それとも信仰を表に現すことをやめてそれを隠し、自分の内面のみの事柄にして、知らん顔をして群衆の中に紛れ込んでいくか、という問いです。群衆が大勢集まって来たことが1節に語られていたのは、弟子たちがこのような問いに直面していることを示すためだったのです。
この問いは誘惑と言い換えることができます。信仰を内側に隠し、外側においては世間の人々と変わらない生き方をすることによって、反感をかったり、嫌な思いをしないですむようにしたい、という誘惑は私たちも常に受けているのではないでしょうか。主イエスは、そのような誘惑にさらされている弟子たちに、つまり私たち信仰者に、信仰を内側に隠してしまうのは、ファリサイ派の人々が心の中の罪や汚れを隠して外面を取り繕っている偽善と同じことだ、と言っておられるのでしょうか。そのようにも読めるのです。
主イエスのまなざし
このように読む時に私たちはここに、主イエスが私たちをどのようなまなざしで見つめておられるのかを示されます。つまり主イエスは私たちのことを、内側に罪や汚れを隠しており、それが露見しないように外側を取り繕っているいわゆる偽善者として見つめてはおられないし、私たちの内側の罪を暴き出そうとしておられるのでもないのです。主イエスは、私たちの内側にあるのは罪や汚れではなくて主イエスに対する信仰である、と見て下さっています。神を信じ、その救いにあずかる者として私たちのことを見つめておられるのです。そして私たちがその信仰を、与えられている神の救いの恵みを、自分の心の中だけに留めておくのではなくて、外に、人々に、証しし、告げ知らせていくことを期待しておられるのです。主イエスのそのような愛に満ちたまなざしを私たちはここに感じ取ることができるのです。主イエスは4節で弟子たちに対して「友人であるあなたがたに言っておく。」と言われています。主イエスは弟子たちを、そして私たちを、「友」と呼んで下さっているのです。主イエスは私たちの罪を暴き立ててそれを裁こうとしておられる方ではありません。むしろ私たちが誰にも見せずに外側を取り繕いつつ隠し持っている罪を、私たちから取り去って、それをご自分の身に背負い、十字架にかかって死んで下さることによってそれを赦して下さる方なのです。私たちのために十字架にかかって命を捨てて下さるというこの上ない愛によって、主イエスは私たちのまことの友となって下さったのです。その主イエスからの慰めと励ましの言葉として、4節後半以降のみ言葉が語られているのです。
恐れるな
ですから、主イエスはここで私たちに、死んだ後地獄に投げ込もうとしている神への恐怖を植え付けようとしておられるのではありません。そうではなくて、死んだ後と言うよりもむしろ今生きているこの人生の日々の歩みにおいて、私たちを本当に支配し、支え、守り、導いて下さっている天の父である神を示そうとしておられるのです。6、7節はそのことを語っています。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。私たちを友と呼んで下さった主イエス・キリストの父である神は、私たちのことをこのようなまなざしで見つめて下さっているのです。私たち一人一人を決してお忘れになることはなく、髪の毛一本に象徴されているように、日々の歩みの隅々までをみ手の内に置いて守り導いて下さっているのです。それゆえに私たちは、この世の事柄を、人間を、人の目を恐れ気にすることなく、主イエスが私たちの中に見つめて下さっている信仰にしっかりと立ち、それをただ内面の事柄にして隠してしまうのでなく、それぞれに与えられている日々の生活の中で、出会う人々に自分の信仰を明らかにし、証ししていきたいと思うのです。
主イエスによる救いに与り、その恵みに与って生きている私たちは、この社会の価値観と同じ価値観で生きているわけではありません。日々起こる出来事に対して、この社会の判断基準と同じ判断基準で生きているわけでもありません。神が独り子を十字架に架けてまで、「この私」を愛してくださり救ってくださったからです。愛されるのに、赦されるのにまったく値しない「この私」を、神が一方的に愛し、赦してくださったからです。その愛と赦しに生かされている私たちは、神の愛にお応えして生きることへと導かれています。なお弱さと欠けを抱え、日々罪を犯しているとしても、神を愛し、自分自身を愛し、隣人を愛して生きる者となるよう導かれているのです。そうであるならば人々の前で私たちの語る言葉や振る舞いが、日々の出来事に対する見方が、なにかを決めるときの判断の仕方が、世の人々とは違ってくるに違いありません。同じでいられるはずがないのです。
共に読まれた旧約聖書詩編118編6節にこのようにあります。「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう」。私たちは「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう」と祈りつつ、私たちを決して忘れることなく、守ってくださる神に信頼し、私たちを友と呼んでくださる主イエスと共に、聖霊のお働きを豊かに受けて、恐れず心配せず、主イエスによる救いを人々の前で証しして行きましょう。お祈りします。