8/17説教「信仰を告白する勇気」

はじめに
先週は世間で言うところの「盆休み」ということで、皆、会社員がお休みで、スーパーに行ってもいつになくおじさんたちが多く混んでいました。ところで墓参りという習慣もだんだん少なくなってきているのかもしれません。テレビを見ていたら今、墓じまいが多いと聞きました。墓を継ぐ人がいない。先祖の墓が遠くで行けない。というような理由です。石の墓標やお墓一式を造る石材店は、今は墓じまいでお墓を壊し、更地にする仕事も多いと知ってなるほどと思いました。ところで、ある教会の教会員である友人が、先祖の墓が山口県に山林と一緒にあるが困っている。どうしたらいいかと、私が牧師だから聞いてきました。本人は結構困っていましたが、教会墓地に入るのなら墓じまいをするしかないでしょう。としか言えませんでした。私たちは亡くなったら天の主のもとに行くと思うので、お墓は納骨の場所と記念の礼拝を行なうところだと思うのですが、就眠者記念礼拝と共に故人を思い出してもらう場所として、お墓は大切な場所であると思います。私も何時になるかは神のみぞ知ることですが、私も大磯教会のお墓に入れさせてもらおうと思っています。
同じ言葉を語る
8月第3主日を迎えました。今朝の新約聖書の箇所は、ルカによる福音書12章8節から12節までです。前回は「世の人を恐れるな。真に恐るべき方、神だけを恐れて生きよ。神はすべてを知り、私たちを守っておられる。そこに真の自由と平安があるのだ」というメッセージを聞きましたが、今日の御言葉は、そこからさらに一歩進め、「あなたが信じている福音を公に言い表し、世に宣べ伝えよ」と主イエスは弟子たちに教えています。今朝は短い箇所ですが、3つのメッセージが語られていると思います。 第1のメッセージは、12章8節から9節にある「あなたの信仰を人々の前に公に言い表しなさい」ということです。8節に「人々の前で自分をわたしの仲間だと言い表す」とありますが、この意味は「主イエスを救い主と信じます」という信仰を言い表すということです。この「人々の前で言い表す」と言う言葉は、その言葉が「公に告白する」と訳せる言葉だということです。つまり「信仰とは公に告白することだ」ということです。信仰は個人的なものというよりも、公的なもの、パブリックなものなのです。ローマの信徒への手紙10章10節に「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」というパウロの言葉がありますが、信仰とは心の中で信じるだけでなく、公に告白することで救われるものなのです。ではなぜ、信仰は公に告白すべきなのでしょうか。それは、主イエスによる救いがこの世のすべての人のための救いだからです。この世の創造主であり支配者である父なる神が、被造物である私たちを救うために遣わされたのがイエス・キリストです。ですから、その救い、イエス・キリストの十字架と復活の出来事は公のものです。だからその信仰も公に告白すべきなのです。もう一つ心に留めておきたいのは、「信仰を人々の前で言い表す」とは「人々の前で主に感謝を捧げることだ」ということです。神への信仰告白とは、神に感謝を捧げ、神への献身を告白するということなのです。
ところで、「わたしの仲間であると言い表す」という言葉ですが、これのもとの言葉は、「同じ言葉を語る」という意味です。それはその人の語ることに同意し、自分も同じ思いであると言い表すこと、つまり仲間であると言い表すことです。父なる神や主イエスのみ言葉に同意し、それを信じ受け入れることを表明する時にこの言葉が使われていったのです。その場合には「告白する」と訳されることが普通です。「信仰告白」の「告白」です。信仰を言い表すことを「告白する」と言うわけですが、その「告白する」は「同じ言葉を語る」という意味の言葉から来ているのです。一般に使われる「心の中に隠していることを表明すること」そういう「告白」とは違うのです。私たちの信仰告白は、自分が思いついたことや考えたこと、あるいは秘めた思いを語ることではなくて、代々の教会が信じ、言い表してきたその信仰の言葉を受け継ぎ、それと同じ言葉を語っていくこと、同じ信仰に生きていくことなのです。私たちが使徒信条や日本基督教団信仰告白を唱和し言い表わすのは、同じ信仰の内容を表明するということです。
聖霊を冒瀆することは赦されない
第2のメッセージは、「聖霊を冒瀆することは赦されない」ということです。12章10節に「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない」とあります。では、「聖霊を冒瀆する」とはどういうことでしょうか。この言葉は「これまで私たちを救いへと導いてくださった聖霊を否定すること」さらに、「信仰を告白するように働きかける聖霊を否定すること」を意味しています。これは、逆に言えば、「私たちが主イエスの救いにあずかったのは、聖霊の導きがあったからだ」ということを意味しています。なぜここに突然「聖霊」が出て来るのでしょうか。聖霊は12節にも出てきます。そこには「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」とあります。10節に聖霊が登場することの意味を考える上での大事なヒントがここにあります。つまり聖霊は、言うべきこと、語るべき言葉を教えてくれるものとして見つめられているのです。聖霊は私たちに、語るべき言葉を与えてくれる。つまり信仰を告白することの大切さが語られてきました。人々の前で、しかも迫害が迫る状況の中で、信仰を言い表す言葉を語ることの大切さです。そういうせっぱつまった場に立たされた時に何を語るか、そこで自分を主イエスの仲間、信仰者であるとはっきりと言い表すことができるか、それとも、自分の身を守るために「イエスなんて知らない、関係ない」と言ってしまうか、が試されるのです。ここは一貫してそのように、人々の前で信仰を告白するか、それとも主イエスとの関係を否定するか、ということを見つめているのです。信仰を公に告白することは簡単なことではありません。特にルカによる福音書が書かれた80年代は迫害期でした。しかし、主は迫害を恐れるな、主が、聖霊が導いてくださると言われます。主イエスの霊・聖霊はどんな時でも必ず守り、支え、導いてくださるのです。
聖霊が与えて下さる言葉
聖霊は私たちに、信仰の言葉、信仰を言い表す言葉を与えて下さいます。ルカによる福音書は聖霊のそのような働きを強調しています。そのことはこの福音書の続きとして書かれた使徒言行録において特に顕著です。その第2章に、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生したことが語られていますが、その時弟子たちは、聖霊によって、主イエスによる救いを語る新しい言葉を与えられたのです。使徒言行録は、この聖霊のお働きによって伝道が進展し、各地に教会が生まれていった様子を語っています。その聖霊が今に至るまで働いて下さっているのです。神が、父としての愛によって私たちに与えて下さる良いものの中心が聖霊なのです。聖霊が与えられるとはどういうことでしょうか。聖霊によって私たちは、神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかける言葉を与えられるということです。「アッバ」というのは、小さい子供が父親を呼ぶ言葉です。子供が親の愛を無条件に信頼して「お父さん」と呼ぶ、そのような愛と信頼をもって神に呼びかけ、語りかけていく言葉を、聖霊が私たちに与えて下さるのです。聖霊は私たちと神との間に、父と子としての信頼関係を築いて下さるのです。そうすると、聖霊を冒涜する言葉というのは、神との関係を否定するような言葉であると言うことができます。それはつまり、人々の前で「イエスなど知らない」と言うこと、自分が主イエスの仲間、弟子、信仰者であることを否定し、主イエスとの関係を拒んでしまうような言葉を語ることです。「聖霊を冒涜する者は赦されない」というのはそういうことです。
信仰を告白する言葉
私たちはこの礼拝において、聖霊のお働きを受け、主イエス・キリストによる赦しの恵み、救いにあずかり、そこから、それぞれの生活へと、人々の前へと、遣わされていきます。そこで、人々の前で、どのような言葉を語るか、自分を主イエスの仲間、信仰者であるとはっきりと言い表す言葉を語ることができるか、が問われています。それが私たち信仰者の日々の課題です。それは重い課題ではあります。けれども心配することはありません。「何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」のです。信仰を告白する言葉は、聖霊が私たちに与えて下さるものです。その聖霊のお働きを信じて、心配しないで身を委ねることこそが、私たちに求められているのです。
御顔こそ、わたしの救い
今朝私たちに与えられた旧約聖書のみ言葉は、詩編42、43編です。長い箇所を読みました。この詩を歌った詩人は、人々から絶え間なく「お前の神はどこにいる」という嘲りを受けています。その苦しみの中で、神のお姿を見失い、「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか」という嘆きの声をあげています。水を求めて谷に降りて来たけれども川は涸れていて渇きを癒すことのできない鹿のように、彼の魂は命の神を求める渇きに苦しんでいるのです。しかしそのような渇き、嘆きの中で、彼は繰り返し、自分の魂に向かって信仰の言葉を語っていきます。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」。私たちも、このような信仰の告白の言葉を繰り返し与えられていくのです。
ところで、42編と43編とは元来は一つの詩を構成していたと思われます。42編6節、12節、43編5節は、同じ語句を繰り返したフレーズです。
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか/神を待ち望め/わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。/わたしの神よ
「神はどこにいる」と問われるべき方ではなく、神は彼にとって「待ち望む」べき方でありました。たとえ現在、神のもとから追放されているとしても、神は彼にとって待ち望むべき方でありました。わたしの神はどこにおられるのだろうかと問うことではなく、神は待ち望むべき方であるのです。神はいつまでも告白すべき信仰の対象であるのです。神は、私たちの現在の状況がどう変化しようとも、その御名を告白し、御顔を拝し、ご自身が与えてくださる救いを待ち望むべき方であるのです。彼がこの重要なことに気付いたとき、暗闇に支配されていた心に一条の光が差し込んできたのです。
重要なのは、神の近さ、近づきやすさではなく、常に神を待ち望み、神に信仰を告白し、神こそ救いと信じ礼拝し続けていることなのです。この待ち望みの姿勢こそ、私たちを人生のあらゆる悩みから解放し、飢え渇きを取り除き、救いを得させる新たな力となりうるのです。そういう待ち望みの中で神と交わる礼拝こそ、私たちの信仰を育て、常に新たな力を与える原動力となるのです。その力を与えるのは恵みの神にほかなりません。この詩編42,43篇から学ばねばならない一番重要なことは、神を慕う心が神から何を受けるかではなく、いつも神を待ち望み、「御顔こそ、わたしの救い」と告白して生きる者となることなのです。
恐れず、心配せず
聖霊のお働きに信頼し、私たちを決して忘れず、守っていてくださる神に信頼して歩むとき、私たちは恐れず、心配せずに生きることができます。この1週間、テレビを通してですが、太平洋戦争前の、人々が戦争へと協力させられていく様々な同調圧力の例を見ました。軍部のそして政府のそして民間のプロパガンダ、権力の行使、非国民と言われる同調圧力がありました。様々な同調圧力の中で、多くの悲劇が生まれました。それは今も起こります。空気を読むことが求められる中で、変な目で見られたり、嫌われたり、批判されたりしたらどうしようという恐れの中にあっても、私たちは恐れず心配せずに、人々の前で、主イエスを信じる信仰を言い表し、救いの恵みの内に歩む中で与えられる、世の人々とは違う言葉や価値観、判断を示していくことができるのです。もちろんそれは簡単なことではありません。出来ないときのほうが多いかもしれません。それでも私たちは諦めるわけにはいかないのです。自分が頑張ることを諦めないのではなく、聖霊のお働きによって私たちが変えられていくことを諦めないのです。
主イエスは弟子たちに、そして私たちに「友人であるあなたがたに言っておく」(4節)と言われます。驚くべきことです。主イエスは、私たちのことをご自分の友であると言ってくださり、罪と弱さと欠けの多い私たちを友としてくださるのです。ここに私たちに対する主イエスの深い愛があります。その愛ゆえに、主イエスは友である私たちのために十字架で死んでくださり、私たちを救ってくださいました。私たちはこの主イエスと共に生きる者とされているのです。お祈りします。

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