ファリサイ派の意図
今朝もルカによる福音書から御言葉の恵に与りたいと思います。冒頭の31節。「ちょうどそのとき」という言葉から、ルカは語り出しています。「そのとき」というのは、すぐ前の個所、主イエスが「狭い戸口」から入るようにと、勧めておられたその時、ということです。先週の説教箇所です。狭い戸口から入るとは、イエス・キリストを救い主と信じるという道のことです。その時、人びとに語られたのは、単に主イエスと食事を共にしたり、その教えを聞いたりしたというだけでは、終わりの時の裁きに耐えることはできない、という主イエスの言葉でした。だからこそ、本当に御言葉に生かされる歩みを、今ここから始めなければならない。救いの恵みから離れないで、そこに留まり続けること。そこに主イエスが命がけで注いでくださった愛に応える私たちの歩みが与えられていくのです。それは、私から離れず、私と共に生き続けてほしい、という主イエスの心からの願いなのです。
そういうことが語られているまさに「そのとき」です。ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、主イエスに忠告をしたのです。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」(31節)と。
このファリサイ派の人たちが、いったいどんな意図でこんなことを主イエスに告げたのか、それは必ずしもはっきりといたしません。彼らはヘロデ王から命令を受けて、実際にこの王の意向を主イエスに伝えるようにと言われて派遣されてきたのかもしれません。あるいは自分たちも主イエスに敵意を抱き、同じ思いを持っているヘロデ王と手を組んで、協力して主イエスを陥れ、挫折させようとしたのかもしれません。あるいはそうではなくて、彼らはファリサイ派の人々の中でも主イエスに対して同情的で、ヘロデ王の悪意を聞き及んだとき、これは大変だと思って、ここで本当に心からの忠告をしているのかもしれません。ちなみに、ルカによる福音書8章3節は「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」がイエスの弟子となって一行に加わっていることを伝えています(8章3節)。ヨハナは、個人として神の前に立たされ、主イエスに従うことを選んだヘロデ派の女性です。彼女がその仲介をとったのかもしれません。いずれにしてもファリサイ派がどういう意図でこう語ってきたのかははっきりとしているわけではありません。
ただ、たとえそれがどんな意図で話されたにしても、そのいずれの思いも、今ここで語り、働いておられる主イエスの御心をまったく理解できていないし、自分勝手な思いであることに変わりはありません。考えられるどんな意図も、主イエスの御心をしっかりと受け止めているものはないのです。今、主イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられるのです。主イエスの進む道は、エルサレムへと向かう道です。そこに入っていくことを省略したり避けたりするならば、神の御心は成就しない。その道から逃げたりするならば、主イエスがこの世に遣わされた目的が満たされない。ファリサイ派はそのことが全く分かっていませんでした。ですから、悪意を持ってであるにせよ、善意で助言したつもりにせよ、このファリサイ派の忠告は、主イエスが歩もうとする道を邪魔し、御業の実現を阻もうとしていることになるのです。
静けさを乱す言葉への敵意
ところで、聖書には何人かのヘロデ王が出てきますが、ここに出てくるヘロデは、ヘロデ・アンティパスと呼ばれる王で、父親のヘロデ大王の死後、ガリラヤとペレアを治めていた人物です。主イエスが今旅をしているその道もまた、ガリラヤやペレアの領内を進み行くものであったのでしょう。ヘロデは「静けさを愛した」と伝えられております。しかしその「静けさ」の意味は、自分の思い通りになることでやっと保たれている心の平静さ、という意味です。ヘロデの愛した静けさとは、なんでも自分の思い通りになる限りでの平安でしかありません。逆に言うなら、自分の心を揺さぶるような言葉や存在に対しては激しい敵意を抱き、それを消し去ろうとし始めるのです。このヘロデは、あの洗礼者ヨハネを殺害した人物です。ヘロデは自分の兄の妻を横取りする罪を犯しましたが、そのことを洗礼者ヨハネに咎められたために、ヨハネを牢に閉じ込め、後には殺害しているのです。自分の思い通りにならないものに対してはむきだしの憎しみをぶつけ、その存在を消し去ることに心を傾けるのです。ヘロデにとっての静けさは、周囲の人々が自分の言いなりになり、世の中が自分の思い通りに動いている限りでの「静けさ」でしかなかったのです。ヘロデは、自分の支配を脅かすような神の言葉には、耳を傾けようとしなかったのです。ましてその神の言葉が人となって、自分の領土で動き回っているなどということは脅威でしかなかったでしょう。自分の支配をひっくり返しかねない、ヨハネよりも危険な存在であると思ったのです。だから彼にとって、主イエスがガリラヤやペレア、エルサレムで活動することは面白いことではなかった。気に食わないことであったのです。このヘロデの敵意を知らせているファリサイ派の人々もまた、同じような敵意を内に秘めながらも、主イエスのためを思って言っているようなふりをしているだけなのかもしれないのです。いや、人のことばかりではない。私たちだってどうでしょうか。自分の静けさを破るような神の言葉の前に、本当に自分を明け渡していると言えるでしょうか。むしろ自分の静けさを破るような神の言葉は殺してしまうような、御言葉の聴き方をしているかもしれないのです。自分の中に受け入れられる限りでの言葉は聴くけれども、自分の過ちを暴き、悔い改めを迫り、変わることを求めるような言葉には拒否反応を示してしまう。そういう御言葉の選り好みが起こっているのではないか。今の自分を肯定し、そのままでいいのだ、あなたはなにも悪くない、そのままで進んで行ったらいいのだ、どこかでそう言ってもらいたいと思っています。不愉快な言葉には、硬い貝殻のように心を閉ざしてしまう、そういうことが私たちにも起こるのです。
三日目にすべてを終える
それに対する主イエスのお答えが32節です。主イエスはヘロデのことを「あの狐」と呼んでおられます。狐という動物はどこでも、ずる賢い悪人を例えるのに用いられるようですが、それはともかく、主イエスはヘロデにこう伝えなさいとおっしゃいました。「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」。このお言葉が語っているのは、一つには、私が行なっているのは、悪霊を追い出し病気を癒すという、人々を苦しみから救うための業であって、ヘロデの支配を打倒しようとする政治的運動をしているわけではない、ということです。そして、私はあなたがどう思おうと、この業を、これまでと同じようにこれからも変わらずに続けていく、と宣言しておられるのです。そしてもう一つ、ここに語られているのは、「三日目にすべてを終える」ということです。これが謎のような言い回しであるわけですが、この「三日目」という言葉は、キリスト者である私たちは、主イエスの十字架の三日目を意識させますが、直接的には「もうじき」という意味に捉えればいいと考えてよいでしょう。今日、明日、そして三日目ですから「あさって」です。あさってには全てを終える。それは、「今私が行なっているこの業はもうじき終るのだ。だからヘロデよ、心配しなくていい。お前が殺そうとしなくても、私の働きはもうじき終るのだ」という意味であると考えることができます。
預言者として死ぬために
これが、ヘロデに伝えなさいと言われていることですが、それに続いて主イエスは人々に語っています。33節です。「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。今日も明日もその次の日も、主イエスは進んで行こうとしておられるのです。主イエスは誰に強制されることもなく、また脅されて方向転換をすることもなく、ご自分の道をまっすぐに歩いて行かれるのです。その行き先はエルサレムです。主イエスはここで、私は今も、これからも、エルサレムへの道を進んで行くのだと宣言しておられるのです。エルサレムは、もはやヘロデの支配する領域ではありません。そこは当時ローマ帝国の直轄地になっており、総督ポンティオ・ピラトが支配しているのです。そういう意味では、「ヘロデの支配下から立ち去ってください」というファリサイ派の人々の勧めの通りにしようとしている、とも言えます。けれどもそれは、ヘロデによって殺されるのを恐れて、命を守るためにエルサレムへと逃れて行こうとしているのではないのです。そのことを示しているのが、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」というお言葉です。主イエスは、ヘロデの手を逃れて生き延びるためではなくて、預言者として死ぬために、エルサレムへと向かっておられるのです。
主の歩みは止められたりはしません。エルサレムでこそ成し遂げられねばならないこと、果たされなければならないことがあるということを、主はご存知なのです。たとえそれを邪魔する人間の言葉、人間の思いがどんなに押し寄せてこようとも、主イエスの歩みはそれをも乗り越えて進み続けるのです。「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」。神の子の道は、どんな邪魔があろうとも進み続けるのです。御業が成し遂げられるまで進んで行くのです。神の御業は御心が成し遂げられるまで進み続けるのです。
主イエスには定められた道があるからです。それは、父なる神によって定められた道です。「進まねばならない」と訳されたところには、「神がそう定められた」、「神がそのように決意された」という意味の言葉が使われているのです。神の並々ならぬ決意があり、主イエスはそれに突き動かされるようにして、定められた道を進み行く。父なる神の御心に、自らの思いを重ね合わせるようにして、神の決意に従って進んでいく。それは私たちの心を暗く覆う罪の闇、御言葉を拒み、自分が支配者であり続けたいという思いにも負けることなく、私たちの中に突き入ってくださり、私たちの中でも御業を成し遂げてくださるのです。
主の名によって来られる方に、祝福があるように
そのためにこそ、主イエスはエルサレムで十字架にお架かりになったのです。あのヘロデの敵意にも真正面から向き合い、その悪の闇を一身に受け止めるようにして十字架に上られたのです。そして罪と死の力に打ち勝って、復活してくださいました。私たちの中にもある「御言葉を拒むイスラエル」と戦って、これに打ち勝ってくださったのです。34節に、次のようにいわれています。
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(34節)。
主イエスは、預言者殺しの歴史の中に飛び込んでこられ、かつての預言者と同じように自らを捧げ、神の前に命を注がれました。嘆きの涙を流しながらついにはご自分の命を注ぎ尽くすほどの愛を貫かれた。その死によってこそ、預言者殺しの歴史に終止符が打たれたのです。エルサレムの歴史、それは預言者殺しの歴史ともいえます。神は何度となく預言者をこの都に遣わされ、彼らを通してその御心を伝えてこられました。めん鳥が雛を羽の下に集めるような愛を注いでこられたのです。
主イエスは35節にあるように、
「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」と言っておられます。
「主の名によって来られる方に、祝福があるように」。これは後にエルサレムに主が入城された時、群衆が叫んだ言葉として伝えられているものです。しかしまさにこの言葉を叫んだ人々の手にかかって、主は十字架につけられていったのです。群衆にはまだ主イエスの本当のお姿が見えていなかったということです。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」。主の十字架と復活、さらには主が高く天へと挙げられたことの後に、礼拝の中でこの御言葉が語られるのを聴いたルカの教会が思い起こしたことは、主が再び来られる時。「その時にはあなたたちは再びわたしを見るようになる、しかも真実の意味で目の当たりにする。失われ、見捨てられていた神の家はその時、再び起こされるのだ、再びひとつに集められるのだ」、その約束を聴き取ったのです。だからこそ礼拝の中で、御言葉によって今自分たちのうちに入って来てくださろうとしてくださっている主をお迎えする思いを新たにしたのです。
主の家からあなたたちを祝福する
詩編の詩人が歌ったように、御業を成し遂げられる主への感謝と讃美を新たにしたのです。
「今日こそ主の御業の日。
今日を喜び祝い、喜び踊ろう」。
「祝福あれ、主の御名によって来る人に。
わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方」。
今、主は私たちの中にも御業を成し遂げてくださろうとしておられるのです。信仰の歩みの中にあっても、いつも心を頑なにし、御言葉によって自分が変えられることを恐れ、不愉快に思い、むしろ自分の中にある自分のエルサレム王国にこだわってしまう私たちです。私たちの生き方にとどこおりを引き起こしながら、繰り返し迫ってくる御言葉にぶつかって、「こっちに来るな。あっちへ行け」と言いたくなるような思いにたびたび悩まされる私たちです。しかし主イエスは今ここに、救いの道を拓いていてくださる。従い尽くすことのできない弱さを抱えた、わがままな私たちにも関わらず、父なる神に従い尽くす主イエスが、今日も私たちの中にあるエルサレム王国の城門の中へと入ってきてくださる。御言葉によって中へと突き入って来てくださり、救いの御業をすべて終えるまで、私たちの中にある罪と戦いきってくださるのです。だからこそ私たちは願わずにいられません。祈り求めずにはいられないのです。今日という日のあるうちに、私たちが力ある御言葉の前に自らを明け渡し、主のみ翼の陰に宿らせていただくことを。終わりの時が来る前に、私たちを抱き寄せてくださろうとしておられる主のみ翼の中に自分をすべておゆだねすることを。どうか私たちの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださいますように。