10/5説教「神の国の福音を知る」

はじめに
今年度、説教箇所としてルカによる福音書を読み解いていますが、今まで説教箇所として取り上げて来なかった箇所を中心に御言葉の恵みに与かろうとしています。同じ聖書の個所を何度も繰り返し説教していることもあります。特にクリスマスの個所はマタイとルカ福音書が中心ですから、4回も5回も同じ個所から説教しています。一方で説教箇所として取り上げていない箇所も多くあります。ということで、今年度は、ルカによる福音書の中で、今まで取り上げなかった箇所を選んで取り上げています。そして、取り上げなかった聖書箇所には、解釈が難解な箇所や、メッセージとして伝わりにくい箇所も多いのです。今朝の個所もそうした箇所の1つです。
あざ笑うファリサイ派の人々
今朝ご一緒に読みますのは、ルカによる福音書第16章14節以下ですが、その冒頭に「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とあります。「この一部始終」というのは、直前の個所、1節から13節のことです。主イエスはそこで「不正な管理人のたとえ」をお語りになりました。彼らはそれをあざ笑ったのです。「不正な管理人のたとえ」とはどのようなたとえであったか、見てみましょう。
主人の金を使い込んでいた管理人がいました。そのことがバレてクビになりそうになった管理人は、必死に知恵を働かせ、主人に借金をしている人々を集めて、管理人としての権限を用いてその借り入れ額を減額してやりました。つまり主人にさらに損害を与えるようなことをしたのです。しかしそれによって、主人のもとを追い出されても自分を恩人として迎えてくれる友達を得たのです。彼は、クビになって路頭に迷いそうだという危機をしっかりと見つめ、自分を守るために必死になったのです。そして、自分に今できること、今しかできないことを見極め、与えられている立場、権限をフルに用いて、なりふりかまわず、自分の救いのために必要なことをしたのです。そのように自分の救いのために必死になった彼の姿を、主イエスは「賢くふるまった」とほめ、弟子たちに、この姿を見倣えとおっしゃったのです。ファリサイ派の人々は、このたとえ話と、それをお語りになった主イエスをあざ笑ったのです。彼らは、このように不正を重ねることによって自分の身を守ろうとする管理人の姿にあきれ、そのような者をほめ、見倣えと言うイエスは非常識だと思ったのです。これは、ある意味私たちも同じ思いでしょう。なぜ、主イエスはこのようなたとえを話され、それを肯定されたのでしょう。
自分の正しさを見せびらかす
そのようにあざ笑う彼らに対して主イエスはこうおっしゃいました。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」。こんな悪人をほめるなんて、とあざ笑っているファリサイ派の人々は、人に自分の正しさを見せびらかす者たちだ、と主イエスはおっしゃったのです。彼らが主イエスをあざ笑ったのは、我々はこの不正な管理人のような人間ではないし、こんな不正なことをほめたり、勧めたりはしない、神のみ心に従って正しく生きているし、そのように人々にも教えているのだ、と思っているからです。主イエスをあざ笑った彼らの心の中にはそういう思いが隠されているのです。「神はあなたたちの心をご存じである」というみ言葉は、彼らのそういう隠された思いを神はちゃんとご存じなのだ、ということを語っています。私たちも、人のことを批判したりあざ笑うことによって、密かに自分の正しさを主張し、人にそれを示そうとしますが、そういう隠された策略というか小細工は人に対しては通用しても、神は、私たちの心の中にある本当の思いをしっかりと見ておられるのです。
金に執着する人々
人の心をご存じである神の目に、ファリサイ派の人々の姿はどのように見えているか、それを語っているのが14節冒頭の「金に執着するファリサイ派の人々」という言葉です。13節までのところで主イエスがお語りになったのは、富をどのように用いるかについての教えでした。その富とは、お金だけのことではなくて、この世を生きるために私たちに与えられている様々な資本、元手のことです。持って生まれた体、性別、能力や才能、家庭環境などの全てがそこに含まれます。それらは私たちが自分の力で手に入れたものではなくて、根本的には神が恵みによって与えて下さったものだと言うべきでしょう。私たちは神が与えて下さったそれらの富を用いて人生を営んでいるのです。神から預けられた富をどう管理し用いるかが、管理人である私たちに問われているのです。そして主イエスはここで、その富を正しく適切に管理し、用いるためには、その富で友達を作ることが大切だとお教えになりました。そういう実例として、不正な管理人のたとえをお語りになったのです。クビになる危機に直面した時、預けられている財産の用い方を変えて、自分を迎え入れてくれる友達を得るために用いるようにした、というお話です。
実はここで主イエスが言おうとしていることは、神をこそ友としなさい、ということです。与えられている富をそのためにこそ用いなさい、と主イエスは教えておられるのです。神を友として持ち、神との交わりに生きることこそが人生の最大の課題なのであって、富はそのための手段なのです。そういう教えの締めくくりとして、13節の「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」というみ言葉があります。信仰者として生きるとは、神というまことの主人に仕えて生きることであって、富はそのための手段である。その富が手段ではなくて主人になってしまい、富に仕えるようなことになってはならない。あなたがたは神に仕えるか、それとも富に仕えるか、二つに一つなのだ、と言っているのです。主イエスはこの不正な管理人の抜け目のなりやり方を、その賢さをお褒めになりました。もちろんそれは、不正な行いそのものをお褒めになったのではありません。そうではなく解雇が間近に迫っている、しかしまだ時間が残されている、という自分の置かれている状況を見極め、自分がすべきことを必死に考え判断したことを、賢いとお褒めになったのです。
昨日、自民党の総裁選挙がありました。連日ニュースで伝えられていましたが、大方の予想が外れた格好のようでした。国民には直接関係ない選挙ですから、どうでもいいと言えるのですが、私の見方ですが、より必死になっていた人が勝ったように感じました。人生にはいろいろなことが起きます。災害や病気のことはもちろんですが、途中でリストラにあって職を失ったり、会社が倒産して借金を抱えたり、結構あることです。経験してみなければわからない真剣な想いということがあります。
主イエスが語った管理人のたとえは、ファリサイ派の人たちにとって、聞き捨てならないことでした。不正そのものを肯定されたのではないとしても、不正に不正を重ねる管理人が褒められ肯定されるのは、まったく受け入れられないことであったのです。ファリサイ派の人たちにとって、律法を守ること、言い換えるならば善い行いをすることこそ褒められ肯定されるべきことであったからです。主イエスをあざ笑うファリサイ派の人たちの姿を、私たちは批判したくなるかもしれません。しかし私たちも彼らと同じように、あるいは放蕩息子のたとえの兄と同じように、善い行いをしている人が報われるのは当然だ、と思っているのではないでしょうか。そしてそれ以上に、善い行いをしているようには見えない人が、褒められ肯定されることに反発を覚えるのではないでしょうか。
人に自分の正しさを見せびらかす
そのようなマインドで生きているファリサイ派の人たちと私たちに、主イエスは「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」と言われます。「人に自分の正しさを見せびらかす」という言葉は、直訳すれば「人の前に自分自身を正しいとする」となります。人の目を気にして、善い行いをすることによって自分自身の正しさをアピールするのです。私たちは自分の正しさを見せびらかそうとは思っていないかもしれません。しかし私たちも人の目を気にして、周りの人から悪く言われないよう自分を取り繕ってしまうことがあります。人の目を気にして生きるとき、私たちは結局、自分とほかの人を比べて生きることになります。人の目に自分がどう映っていて、また相手がどう映っているのかを比べて生きることになるのです。不正な管理人は、誰が見ても不正な行いをしていました。それに対してファリサイ派の人たちは、誰が見ても善い行いをしていました。ファリサイ派の人たちにとって、自分たちと不正な管理人を比べるなら、不正な管理人が褒められることはあり得ないことだったのです。もしそれを許してしまえば、「人の前に自分自身を正しいとする」彼らの生き方が否定されることになるからです。
神は私たちの心を知る
しかし主イエスはまさに彼らのこの生き方を否定され、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」と言われたのです。「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる」とはどういう意味なのでしょう。人の目を気にして、善い行いをすることによって自分自身の正しさをアピールしていたファリサイ派の人たちの振る舞いは、周りの人たちの尊敬を集めていたに違いありません。「人に尊ばれるもの」とは、「人々の間で高いもの」という意味です。ファリサイ派の見た目や振る舞いが人々の間で高いもの、尊ばれるもの、価値あるものとされたのです。しかし神はそれらを忌み嫌われます。なぜなら神は私たちの見た目や振る舞いではなく、私たちの心を見るお方だからです。
報われる人生
これだけ頑張って正しく生きているのだから、それなりの報いがあるはずだ、神の恵みがあってしかるべきだ、と思っているのです。いわゆる因果応報の考えです。その神の恵みの具体的な印が、広い意味での富です。神に従って正しく生きている人には、必ずしもお金ではなくても、人生の豊かさ、富が与えられてしかるべきだ、という思いです。
先週の月曜日、西湘南地区の牧師会がアレセイア中学校・高等学校の会議室で行われました。参加の牧師は少なかったのですが、アレセイアの宗教主任である仲間の牧師が発表しました。「コロナ後の中高生の姿」という題でしたが、コロナ前と比較して、人間関係の苦手意識が増えた、精神的不安定、欠席増加、礼拝への参加意識低下がみられる、オンライン授業とデバイス利用の影響がみられる、ということでした。そこで牧師の中から、コロナ禍では、いろいろ自分を振り返る時が持てた。忙しさから解放された、というある意味良かったこという意見がありました。私自身も、もう忘れかかっているのですが、コロナ禍では、大変なこともあったのですが、礼拝は中止、1年近く、説教原稿を水曜日頃に皆さんに郵送し、それ以外は、集会は一切なし、対外的にも人と接触する集会は一切なかった。今考えるとのんびりしていて、それはそれでよかったと思います。実はその後、有志で食事会に行ったのですが、話は盛りあがり楽しかったのですが、ある牧師が、牧師の最後は悲惨だ、と言われました。具体的なことは言わなかったので、どういう意味で言ったのかは分かりませんが、尊敬していた牧師の老後が悲惨な状況にあったらしい。経済的に困窮したのか、一人ぼっちで孤独な老後を迎えたのか、よく分かりませんが、教会によく尽くされた牧師が最後は悲惨な状況にあったようです。しかし、それは牧師に限ったことではなく、誰にも言えることで、老後は悠々自適で穏やかな一生を終わるわけではありません。苦労の連続かもしれません。神に従って正しく生きた人が、報われる人生の豊かさを与えられるとは言えないのです。
神の国へ力ずくで入る
次に、主イエスはこう言われています。16節です。
16律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
この「だれもが力ずくで入ろうとしている」というのがここで最も分かりにくい言葉です。難解な言葉です。前の口語訳聖書では「人々は皆これに突入している」となっていました。新しい聖書協会共同訳では、「それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが激しく攻め入っている。」と訳されています。いずれにせよこれは、無理やり、乱暴な仕方で、というニュアンスの言葉です。洗礼者ヨハネが現れ、主イエスが来られたことによって、神の国が全ての人々に開かれ、それまではそこに入ることができなかった者たちが、無理やり、乱暴な仕方でそこに入る、入れられるということが起っているのです。神の国とは、神が支配される世界という意味です。あの不正な管理人が、不正な手段を使って、なりふりかまわず、自分の救いのために奔走した姿は、まさに「力ずくで」神の国に入ろうとする人の姿を描いていると言えます。しかし勿論神の国は人間の力で無理矢理入ることができるものではなくて、そこに「迎え入れてくれる」神の恵みによってこそ入ることができるものです。そういう意味では「力ずくで入る」という訳は適切でないとも言えます。ある人はここを「激しく招かれている」と訳したらよいと言っています。14章には、盛大な宴会を催した主人が、その宴席を埋めるために通りや小道から人々を無理矢理に連れて来る、という話があります。これは神の方が力ずくで人々を神の国へとかき集める、という話です。この話を思い出せば、ここの意味がより分かるのではないでしょうか。また15章には、迷子になった羊をどこまでも捜しに来る羊飼いや、帰って来た放蕩息子を走り寄って迎え、息子の詫びの言葉をさえぎって祝宴を始める父親の姿が描かれています。これらの話に様々な仕方で語られている神の激しい、力強い愛によって、救いにあずかるのに相応しくないと思われていた罪人たちが神の国に入るという、ある意味大変乱暴な救いの出来事が今や生じているのです。そういう新しい時代が今や始まっているのだと主イエスはここで告げておられるのです。
この新しい時代に身を置いて見るならば、ファリサイ派の人々の、人に自分の正しさを見せびらかし、その正しさの報いとして救いを得ようとする姿は、もはや時代遅れです。自分の正しさに拠り頼み、正しさの報いとして救いを得る時代は既に終わっているのです。不正な管理人のたとえもそのことを語っています。もはや問題は、自分が正しいか不正かではない、そんなことよりも、迫っている滅びの危機を本当に真剣に受け止め、自分を迎えてくれる友を得ること、しかも、永遠の住まいへと、神の国へと迎えてくれる神を友として得ることを、なりふりかまわず求めていくことこそが大切だ、ということをこの話は教えているのです。
神が私たちの心を知っていてくださるとは、私たちが抱えている苦しみや悲しみや葛藤、人には言えない思いを、神が暴かれるということでは決してありません。そのような苦しみや悲しみ、白黒つけることができない葛藤、人には言えない思いを抱えている私たちと、神が本当に共にいてくださる、ということなのです。独り子を十字架に架けてまで私たちを救ってくださったのと同じ熱い想いによって、深い愛によって、神は私たちの心をご存じでいてくださるのです。私たちはこの神と共に生き、この神の眼差しに目を向け、神の御心を知らされつつ生きるのです。その歩みは、自分の利益を求めて虚しく生きる歩みではなく、神の恵みにお応えして生きる、まことに意味ある歩み、祝福された歩みなのです。お祈りします。

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