はじめに
今日、10月12日は神学校日・伝道献身者奨励日です。福音宣教に携わる人が次々と与えられるようにと私たちも願っています。先週の6日から8日まで月火水と2泊3日で全国連合長老会主催の新任教師研修会に参加してきました。場所は神戸の須磨月見山教会を会場にして行われました。研修対象者は11名で、スタッフは全国連合長老会議長、副議長、書記の牧師と特別講師の牧師などで、総勢19名が3日間生活を共にしました。宿泊は六甲山のふもと辺りにある快適なホテルで、しばらくぶりにゆったりとした時を過ごすことが出来て感謝しています。宿泊や交通費、食事などは申請して全国と神奈川の連合長老会の方で出していただき、大磯教会からも支出していただきました。研修は「改革教会の教理」「説教」「洗礼・聖餐・職制に関する基本的見解」というような内容ですが、出席者全員での懇談や3人部屋のホテルの部屋での会話などでそれぞれの教会の状況を知ることができて大変有意義な3日間でした。色々な教派ごとに神学校がありますが、どこも伝道献身者が少なく大変なようです。東京神学大学からも各教会宛てに伝道献身者を送ってくださいとの切実な手紙が来ています。是非、皆さんも心当たりの方に声をかけてください。若い人に限りません。私の知っている人でも、60歳過ぎで神学校に入学し、70歳すぎて牧師になった方も数人います。今回の研修者の対象は、連合長老会加盟の教会に初めて招聘された牧師・伝道師と大磯教会のように連合長老会に新たに加盟した教会の牧師・伝道師です。ちなみに私と同室の2人の方は、1人は関西の有名な国立大学の大学院の修士を出て薬学研究でタンパク質の何かを研究していたとのことでしたが、神学校に入り直して、牧師として10数年牧会されている方でした。もう一人は、長年、海運会社の航海士として大型貨物船で海外を航海していたそうです。いったん航海に出ると半年とか日本には帰れなかったそうです。60歳過ぎて牧師になり、この方も牧会生活が10数年の方でした。そして、また3分の1ぐらいは女性の牧師でした。何10年説教を語っている牧師でも、難しい聖書の個所では戸惑い、また新たな気づきが与えられます。今朝の個所も難解です。早速、御言葉の恵みに与かりましょう。
ファリサイ派と弟子にそれぞれに問うイエス
ルカによる福音書17章20-37節をお読みしました。この箇所は単に長いというだけでなく難しい箇所でもあります。み言葉がすんなり入ってこないと思える箇所ではないでしょうか。しかしそのような箇所だからこそ、私たちに語りかけていることを聞き取っていきたいのです。この箇所は大きく分けて20、21節と22節以下に分けられます。20、21節で主イエスは、ファリサイ派の人たちの「神の国はいつ来るのか」という問いに答えて語っています。それに対して22節以下では、冒頭に「それから、イエスは弟子たちに言われた」とあるように、主イエスは弟子たちに向かって語っています。ですから20、21節と22節以下では、主イエスが語りかけている相手が違うのです。
昇天より後の時代を見据えて
先に22節以下、つまり「人の子の日」について見ていきます。22節で主イエスは弟子たちにこのように言われています。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」と。「人の子」は主イエスがご自身を指して用いられた言葉ですから、「人の子の日」とは「主イエスの日」ということになります。そして「主イエスの日」とは、十字架で死なれ、三日目に復活され、天に上げられた主イエス・キリストが再び来られる日です。再臨の日です。つまりここでは、弟子たちが主イエスの再び来られる日を一日だけでも見たいと望むが、見ることができない時が来る、と言われているのです。そうであれば主イエスは、ご自身が弟子たちと共に地上を歩めなくなるときを見据えて、ご自身の十字架と復活、昇天より後の時代を見据えて語っていることになります。
主イエスを見たいと切に願っているか?
主イエスを目で見ることができない時代に生きているのは、私たちも同じです。そうであれば、「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」という主イエスのお言葉は、私たちにも当てはまります。ところで、私たちは今、主イエスが再び来られる日を一日だけでも見たいと望んだとしても、しかし見ることができない時を歩んでいるのです。しかし、実際のところ、私たちは今、主イエスが再び来られる日を見たい、とどれだけ望んでいるでしょうか。主の再臨を、それこそ「一日だけでも見たい」と望むほどに、果たして願っているでしょうか。この箇所のみ言葉が私たちにすんなり入ってこない理由の一つは、ここにあります。主イエスが天に上げられ、聖霊が降って教会が誕生した後の時代に、弟子たちが抱いていた「早く主イエスに帰って来てほしい」という切なる望みが、「早く主イエスを見たいという切なる望み」が、私たちにピンとこないことにあるのです。そもそも、主イエスを信じて生きるとは、主イエスが再び来てくださることを信じて生きることです。私たちが、主イエスを見たいと切に願っているか、と自分自身に問うことは、自分自身の信仰を問うことでもあるのです。
再臨を望み、それに向き合う
弟子たちが「主イエスが再び来られる日を一日だけでも見たい」と切に願うようになるのは、彼らが困難な現実に直面して生きることになるからです。主イエスの十字架と復活によって救われた後も、弟子たちは、なお困難な現実を生きることになりました。とりわけ彼らは、使徒言行録に語られているように、主イエスを信じるゆえに迫害を受けることになるのです。主を信じることの緊迫感が違うということかもしれません。私たちは迫害を受けることはないかもしれません。しかし、なお多くの苦しみや悲しみに覆われている現実を生きています。
先ほど、先週、神戸で新任教師研修会に参加したお話をしました。ある女性の牧師が、ある長老からひどいことを言われていると悩みを語っていました。スタッフの韓国から来られて連合長老会加盟教会の主任牧師をされている方が、大変良く気を使ってくださる方で、日本語も上手な牧師ですが、その女性牧師をフォローする意味で言われたと思いますが、自分は、赴任した教会で初めて説教した際に、自分の国へ帰れ、とある教会員に言われてしまった。大変ショックだったと経験を語ってくださいました。これはある意味迫害です。偏見、差別です。あるいは別の迫害もあるかもしれません。信徒が牧師におどかされるとか。これらは外部ではなく教会という身内の迫害・差別ということになりますが、これ以上話すと暗い気分になるので止めますが、長老からひどいことを言われたという女性牧師は、後に、ひどいことを言った長老が、少し精神的な病気になりかかっていたと分かって、救われた思いになったと言われました。
この箇所の27節で主イエスは、ノアの時代の人々が「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」と言っており、28節ではロトの時代の人々が「食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた」と言われています。私たちは日々食べたり飲んだり、買ったり売ったりして生きているのです。しかしこれらの営みにかまけて、主イエスの再臨を切に願わないなら、私たちは困難な現実に、苦しみと悲しみに満ちている現実に耐えることができず、現実逃避するしかないのです。けれどもそうであってはならない。私たちは主イエスが再び来られる日を見たいと切に願い、地上の生涯ではなく、地上の生涯を越えた主イエスの再臨に望みを置いて生きるのです。使徒言行録で主イエスが天に上げられ、弟子たちの目から主イエスが見えなくなったとき、弟子たちは天を見上げてただ立っているしかできませんでした。しかしその弟子たちに主の使いは「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見るのと同じ有様で、またおいでになる」と告げたのです。弟子たちがそうであったように、私たちもこの約束を信じ、この約束の実現を切に願って生きるのです。そのように生きるときにこそ私たちは、今、直面している現実にしっかり向き合って歩んでいくことができるのです。
「既に」と「未だ」
弟子たちが、その到来を見たいと望むが見ることができない、とはどういうことなのでしょうか。このことは、弟子たち、つまり主イエスを信じ従っている人々、信仰者にこそ語られるべきことです。主イエス・キリストを信じる信仰者は、主イエスにおいて、神の国、神のご支配がこの世界に、私たちのところに到来したことを信じています。この世界を、また私たちの人生を、本当に支配し導いているのは主イエスであり、主イエスを遣わして下さった父なる神であることを私たちは信じているのです。しかしそのように信じるからこそ私たちは、その神のご支配が、今はまだ完成していないこと、誰の目にもはっきりと見えるものとはなっていないことを感じます。そしてそのご支配が確立、完成する日を見たいと願い、待ち望むのです。つまり主イエスに従う弟子や信仰者にとって神の国は、主イエスにおいて既に実現していると共に、未だ完成していない、目に見える現実とはなっていないのです。この「既に」と「未だ」の間を生きることが、信仰をもってこの世を生きることです。主イエスのことを信じておらず、受け入れようともしないファリサイ派の人々に対しては、主イエスによって「既に」神の国が来たことが語られなければなりませんでした。しかし主イエスを信じ従っている弟子たち、主イエスによる神の国の到来を受け入れている信仰者に対しては、それが「未だ」完成していない現実をしっかりと見つめ、その中でいかに生きるかが語られなければならないのです。
惑わされるな
「人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」というところは、主イエスのご支配、つまり神の国の実現を一日だけでもこの目で見たいと願うが、それを見ることができない、そういう時を、今まさに私たちは歩んでいるのです。この世の様々な悲惨な現実を前にして私たちは、神の、主イエスのご支配、その救いはいったいどこにあるのかと嘆き、神の国の実現を一目でも見たいと願います。それは主イエスにおける神の国の到来を信じていればこその嘆きであり、願いです。そのような時を歩んでいる私たちに、主イエスがここで「気をつけるように」と言っておられるみ言葉が23節です。「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない」。神の国、神のご支配を見ることができない状況の中で、「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」と言う人々が現れる。その人々は、ここにこそ神の国が見える、あそこにそれを実現する人がいる、と言って、人々を自分のところに集めようとするのです。「人の子の日」と言われているように、神の国は人の子主イエスがもう一度この世に来られることによって、つまりいわゆるキリストの再臨において目に見えるものとなり、完成します。その再臨の主イエスがここにいる、あの人がそうだ、という人々が現れるのです。現に今も、「私は再臨のメシアだ」と言っているカルト教団の教祖がいます。そういうものはこれまでにも繰り返し現れたし、これからも現れるでしょう。主イエスはここで、そういう話を信じるな、そういう人についていくな、と言っておられます。「ここに再臨のキリストがいる」「あそこに神の国が実現している」という教えは、ことごとくインチキなのです。そういう教えに惑わされて「出て行ってはならない」とあります。それは、正しい教えから離れ去ってはならない、主イエスの教えにしっかりと留まっていなさい、ということです。私たちの信仰において大切なことは、「既に」と「未だ」の間の緊張関係にしっかり留まり、そこから出て行かないことです。「既に」を否定してしまったらファリサイ派と同じになってしまいます。また「未だ」を否定して「既に」のみを語る、つまり「ここに神の国が実現している」と言う人々のところに出て行ってしまうと、この世の現実を正しく把握することができなくなり、責任ある生き方ができなくなるのです。
再び来てくださる主イエスに迎え入れられる
34節では、二人の男が一つの寝室に寝ていれば一人は連れて行かれ、他の一人は残されると言われ、35節では、二人の女が一緒に臼をひいていれば一人は連れて行かれ、他の一人は残されると言われています。それは救われるか滅ぼされるかは五分五分だということではありません。半分が救われ半分が滅ぼされるから、救われる半分に入るために必死に生きろ、と脅しているのでは決してありません。そうではなく一人ひとりが、自分の日々の一つ一つの営みの中に神のご支配を信じて生きることが問われているのです。たとえ二人の人が共にいたとしても、一人ひとりが問われているのです。そして日々の営みの中に神のご支配を信じて生きる人は、人の子の日に連れて行かれるのです。「連れて行かれる」は、「迎え入れる」や「受け入れられる」とも訳せます。神のご支配を信じて生きる人は、人の子の現れるときに、再び来てくださる主イエスに迎え入れられ、受け入れられるのです。37節で、弟子たちが「主よ、それはどこで起こるのですか」と尋ね、主イエスは「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」と答えています。謎めいた問答ですが、おそらく条件が整えば必然的に結果が生じることを見つめています。つまり死体のあるところに必然的にはげ鷹が集まるように、神のご支配を信じて生きる人のところに、必ず主イエスは来てくださり、その人を迎え入れ、受け入れてくださるのです。
人の子の現れるときに
私たちは日々の一つ一つの営みの中に、小さな営みの中にも大きな営みの中にも神のご支配が実現していると信じ、神を無視することなく、神の御心を求めつつ生きていきます。そのように生きるとき私たちは、いつ来るか分からない人の子が現れるときに備えて生きているのです。そのとき私たちは、「食べたり飲んだり」、「買ったり売ったり」することを疎かにするのではなく、つまり日々の生活を疎かにするのではなく、むしろ日々の生活の営みに責任を持ちつつ、しかしその営みに執着し、それにしか関心を持てなくなることから自由になって生きるのです。自分の財産や家族や思い出を大切にしつつも、それに執着することから解放されて生きるようになるのです。私たちの執着は、私たちの支配欲の表れです。しかし私たちではなく神こそが私たちのあらゆる営みを支配しておられます。その神のご支配を信じることによって、私たちは自分の執着から自由になって生きることができるのです。「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」とは、自分の生活や持ち物に執着しない人は長生きできるということではありません。私たちは必ず地上の生涯で死を迎えるのです。しかし自分の生活や持ち物に執着せず、今、すでに実現している神のご支配を信じ、将来、神のご支配が完成することを信じて生きるとき、私たちは人の子が現れるときに地上の死を超えた復活と永遠の命にあずかります。「かえって保つ」とは、地上の命を永らえることではなく、この永遠の命にあずかることにほかならないのです。人の子の現れるときに、日々の一つ一つの営みの中に神のご支配を信じて生きる私たちのところに、必ず主イエスが来てくださり、私たちを迎え入れ、復活と永遠の命にあずからせてくださいます。私たちは日々の営みの中で色々な困難、苦しみや悲しみに直面しても、この地上の死を超えた究極の希望に望みを置いて歩んでいくのです。
祈ります。