11/16説教「ぶどう園の労働者のたとえ」

はじめに
神の御子イエス・キリストの地上の生活については、マタイによる福音書とルカによる福音書にキリストの誕生の記事が記されているほかには、少年時代の主イエスのエルサレム神殿でのエピソード以外にほとんど記されていません。40日間のサタンの誘惑を退けガリラヤで伝道を開始され、12人の弟子を連れて、人びとを癒され、奇跡を行ない、ファリサイ派や律法学者との論争・確執が描かれており、33歳で十字架の死と復活を迎えた。福音書はその3年の出来事に集中しているのです。つまり30歳までの地上でのイエス・キリストの生涯については聖書にはほとんど記載がないのです。しかし、一方、主イエスはまことに、たとえで真理を語る天才です。私が数年前にまとめた『聖書のたとえ話』という本には48の主イエスのたとえを載せています。しかし、これだけではないのです。他の福音書にある同様のたとえをはぶいていますからもっと多いのです。そのたとえ話は様々です。まことに主イエスは日常のたとえを用いられた方です。その中には労働や借金に関するたとえもいくつもあります。「ぶどう園の労働者のたとえ」の外に「ぶどう園の農夫」の話や「タラントンのたとえ」や「借金を帳消しにされた人」の話などです。地上での主イエスは、さまざまな労働、気苦労、困難を乗り越えて来られた生涯であったことが想像されるのです。私たちも多くの失敗と成功の体験をして成長し、人生を歩んでいます。私たちも自ら体験して実感として分かることが多くあります。今朝は主イエスが語った「ぶどう園の労働者のたとえ」を通して御言葉の恵みに与りたいと思います。
ぶどう園の主人の判断は不公平か
このたとえの中で、ぶどう園の主人は、一日の中で何度も雇人を増やしています。日の出からすぐに働いて頑張った人。日がずいぶんと上に昇ってから働き始めた人。正午から働き始めた人。午後3時から働き始めた人。そして最後に午後5時に、日暮れに働き始めた人もいます。同じ労働者でも働く時間はもう全然違うのです。最後の人が1時間ほどであるのに比べて最初の人は12時間、丸一日働いています。しかし最後に主人は一人一人に1デナリオンの賃金を渡してくれるのです。それを、遅く働いた人たちから渡していったものですから、早朝組の人たちは、もっと沢山もらえるのだろうなと期待してしまったのです。しかし同じ1デナリオンです。あてが外れた人々は、この主人に対して文句を言いだすのです。一時間しか働いていない彼らと、一日中働いた我々が同じ賃金だなんておかしいでしょう!不公平だ!と食って掛かったわけです。このたとえ話を聞いて皆さんはどう思われるでしょうか。いや、初めに1デナリオンの約束で納得したのだから文句を言ってはならない、と思ったでしょうか。それとも、彼らの言うことはもっともだ。早朝組が1デナリオンなら、夕方5時組はもっと少なくするべきだろう、あるいは、夕方5時間際から働いた人が1デナリオンなら、早朝から働いた人にはプラスしてあげないとおかしいだろう。そう思われるでしょうか。これは、このたとえ話を単に傍から眺めているときに出てくる答えと、自分の身に降りかかった自分の出来事として考えるのとで答えが違うことを意味しているのです。私たちは、こと仕事のこと。賃金の発生することとなると目の色が変わってきます。何しろ生活がかかっていますから。そして自分の大切な時間をその仕事のために費やしたのですから。このように早朝から12時間もかけて働いた人々がぶどう園の主人に食ってかかったのは、ある意味、人間として当然の反応だと思います。きっとわたしもその立場なら、抗議するだろうと思います。そんなの不公平だろう。なんで彼らにそんなにやるんだ。だったら我々にも!と思うでしょう。それを、ぶどう園の主人の寛大さと受け止めて、5時から組の人もそれだけもらえてよかったな!などとは思えないのです。この早朝組の人々の態度が必ずしも恥ずかしい利己主義とは思いません。むしろ人間の当然の心理状態を言い当てていると思います。
神の思いと人間の思い
しかしそのような彼らに対してぶどう園の主人はこのように語ります。「主人はその一人に答
えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」と。ここでぶどう園の主人は、三つの理由をもって答えます。一つ目にこの賃金の値段は最初に交わした契約であるということ。二つ目に、自分のものを自由に渡す権利があり、そこにあなたたちにとやかく言われる筋合いはないということ。三つ目に、これはわたしの気前の良さなのであって、それに言いがかりをつけることは妬みに過ぎないのだということ。確かに、彼らはこの主人と、最初に交わした契約は1デナリオンの賃金で働くということでした。それで彼らはちゃんと納得したのです。にもかかわらず、彼らは自分よりも働いていない人と比べてしまったとき、そこに不満を感じ始めたのです。そう考えると、心情的には同情できるかもしれませんが、彼らの発言は妬みから来るものだと言われても仕方がないかもしれません。あなたがたの持っているその感情は妬みの感情だ。そう言われて、びっくりしたかもしれません。自分が妬んで言っているなどと恐らく彼らは全く思っていなかったでしょうから。このぶどう園のたとえにある、早朝組の人々の憤り。自分たちと同じ賃金を五時からの人々に渡すのはおかしい。それはえこひいきだと言いたいのです。けれども、彼らは確かに、最初に、1デナリオンの約束で主人に雇われたのです。この主人が言うように、不当なことはされていないはずです。そして、このたとえは確かにたとえ話でありますが、このようなぶどう園などの主人が収穫期に多くの人々を雇うこと。そのために早朝から職にあぶれた人々が、立ったまま待っているという、そういう状況が古代パレスチナではよくあった風景だったようです。かなり現実的な話です。そしてそこで、雇ってもらえない人々にとって、それは明日の食事がないと言うことを意味します。貧しい人々は貯金するなどできませんから、この日、雇われることがなかったならば、家族を路頭に迷わせるということがあったのです。このぶどう園の主人は、自分の損得ではなく、彼らを助けてやりたいという思いから、12時になっても、3時になっても、5時になっても仕事をもらえなかった人々を集めて仕事をあげたのです。そして同じ額の賃金を払ってやったのです。6節で主人は、夕方になっても立っている人々に尋ねます。「『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか。』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。」とあります。夕方になっても誰も雇ってくれない。それでも待ち続ける苦しみ。その苦しさは、朝から働きどおしの早朝組の苦労とはまた違う苦しみです。そういうことを考えると、早朝組の言い分は一見正しいように見えて、やはり自分のことしか考えていないのだということです。しかし、このたとえから私たちが受け止めなければならないことの一つには、わたしたちもこういう過ちをしてしまうことがあるかもしれないということではないでしょうか。
さまざまな解釈
『イエスの譬え話1』(山口里子・新教出版社)という本には、この主イエスのたとえ話の様々な解釈について記しています。二世紀に活躍した神学者、エイレナイオス、また三世紀のオリゲネス、あるいは四世紀のアウグスティヌスたちは、このたとえの中で、5回にわたって主人が労働者に呼びかけることは、アダム以来の人類の「救済史」を表していると言っています。そして主人は神、雇われた人々は代々の聖徒たち、ぶどう園は神の義、デナリは救いを表すものと解釈しました。
あるいは少し後の時代には、主人は神、ぶどう園は教会、早朝に雇われた人々は律法学者やファリサイ派たち。夕方雇われた人々は罪人・徴税人・娼婦・病人・障害者たちと、解釈されました。
また、最近では、早く雇われた人々は若い時からのクリスチャン、遅く雇われた人々は人生の終りにクリスチャンになった人々、などとも解釈されています。そしていずれの解釈においても、ぶどう園の主人は神で、早く雇われた労働者たちは、自分の業績を誇り、神の寛大さに反抗する傲慢な者と理解されてきました。こうして、神は、神の前に何ら業績の無い人々へも業績主義ではなく、心優しく寛大に振舞う方だという、神の慈しみの教えとして理解されてきました。そしてまた、あらゆる人々の間に神の民の平等と連帯を呼びかける話しとして理解されてきたと言っています。
また最近のある本によると、「早くからぶどう園で働いた人々はユダヤ人」、「後からぶどう園で働くようになった人々は日本人を含めた異邦人」であると言っていますが、私たちもしばしば、先を越された人に対して、自分の特権を無視されたように不平を言うことがないでしょうか。確かに極端な合理主義や、えこひいきにいらだつ思いも、行きすぎると余裕の無い社会になります。
このたとえのメッセージ
このたとえが語っている実に単純なメッセージ。それは、神とは、このぶどう園の主人のような気前の良い方であるのだということです。その気前の良さ。つまり神の公平と神の善き御心。その愛と憐れみから注がれる導きは一人一人に十全に注がれていて、ただそれを信じて受け止めていくなら、決して私たちを損なうものではない。なぜなら神の気前の良さは、私たちにも十分に与えられているからです。神は私たちにも約束をしてくださっています。一人一人に御自身の命を与えてくださっています。イエス・キリストの十字架と復活を通して永遠の命を与えてくださっているのです。私たちは、人と比べた時、神の恵みを忘れてしまいます。他人と自分を比べるのではなく、最後まで、神と私の関係に生かされて生きていきたいものです。
愛を注いでくださる神の話
15節で主イエスはこう言っています。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それともわたしの気前のよさをねたむのか」。これは厳しい審きの言葉でもありますが、また慰めに満ちた御言葉です。「気前のよい」主の恵みに生かされるようにとの招きの言葉です。ここでの報いは十の働きをしたら十の報いがあり、五つの働きをしたら五つの報いがあるということではないようです。そのように働いた者の働きが呼び出したものではなくて、ぶどう園の主人が、ただ心から喜んでもらいたいから与えた賜物です。そのような主人の気前よさがここでの主題になっているのです。確かにここでの主人公はぶどう園の主人です。気前の良さのおもむくまま愛を注いでくださる主人の話なのです。
渇きを覚えている者は来るがよい
今朝の旧約聖書の御言葉はイザヤ書55章1から5節を読みました。1節を見ると、「渇きを覚えている者は、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」とあります。ここで神はただで恵みを受けるようにと招いておられます。55章には神の祝福への招きが語られています。皆さんは、今までどれだけの招待を受けたことがあるでしょうか。その中で一番価値のある招待はどのようなものでしょうか。1節で主は、「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい」と招いておられます。ただで恵みを受けるようにというのです。これこそほんとうに価値ある招きではないでしょうか。水というと、日本ではただで飲めるというイメージがあってあまり価値のないもののように感じますが、そうではありません。調べてみると、この地球にはおよそ14億Km3の水があると言われていますが、そのうちの約97%は海水で、淡水はわずか3%しかありません。そしてこの淡水のうち私たちが生活に利用できる水はわずか0.8%しかないのです。ですから、水はとても貴重な資源なのです。ヨーロッパなどでは昔からレストランなどてで何かを注文する時、水が欲しかったら「ミネラル・ウォーター」といって注文しなければならないそうです。お金を払って買わなければならないのです。しかも水の方がぶどう酒よりも高いという所もあります。イスラエルやエジプト、中近東の砂漠地帯に行きますと水はもっと貴重で、たとえば最大の産油国であるサウジアラビアでは石油よりも水の方が高いと言われています。それほど水は貴重なものなのです。それなのに、ここではその水をただで飲めと言われています。水だけではありません。穀物も、ぶどう酒も、乳もです。「さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」もちろん、これは物質的な祝福だけのことではありません。物質的なものも含め、すべての良いものを意味しています。「穀物」というのは、いのちの象徴でしょう。イエスは「わたしはいのちのパンです」と言われました。また、「ぶどう酒」は喜びを、「乳」は「みことばの乳」という言葉があるようにいのちを養い、成長させるうえで欠かせないものです。そのように物質的にも、霊的にも、私たちにいのちを与え、私たちの生活を支え、私たちに喜びをもたらすものを求めて、神のもとに出て来い、というのです。「来るがよい」という言葉は命令形で、非常に強いことばです。なぜこのように強く命じられているのでしょうか。なぜなら、来ることがなければ何も始まらないからです。来ることによって初めて受けることができます。ですから、神は私たちに向かって開口一番言われることは、来なさいということなのです。あなたがどんな用事があろうと、どんな状況であっても、あなたが神の祝福を受けたいと思うのであれば、そうしたものを脇に置いてでも来なければならないのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)ここでイエス様は、「わたしを遠くから見なさい」とか「わたしを研究しなさい」とは言いませんでした。「来なさい」と言われました。そうすれば、あなたがたを休ませてあげる・・と。ですから、もしあなたが恵みを受けたいのなら、イエスのもとに来なければなりません。

今朝は主イエスが語られた「ぶどう園の労働者」のたとえを通して、ぶどう園の主人にたとえられた神は、気前の良さのおもむくまま愛を注いでくださる方であることを教えられています。

私たちはそれぞれ違う時代、違う場所に生まれ、違う時にあなたから招かれて、それぞれに違った賜物をもって働いておりますけれども、みな神のぶどう園の労働者として、この地上であなたの御業に励んでいるのです。そのようにして用いられていることを感謝し、他人と比べたり、妬んだりすることのないように、常に私たちの心を自由にしていたいと願うのです。わたしたちが勝手に考えてしまう平等の原則にもとらわれず、あなたは人々に恩寵を与えてくださいます。その気前の良さにつぶやくことなく、私たちに与えられた人生を最後まで喜びをもって生きて行けるようにと願うのです。 お祈りします。

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