1/4説教「イエスはまことのぶどうの木」

説 教
新年を迎えました。皆さまの新しい一年の歩みの上に主イエス・キリストの祝福と神の導きがありますようにお祈りします。
ところで、今年はどんな一年になるでしょうか。それぞれに願うところがあると思います。しかしそれと同時に不安もあります。私たちは例年、新年には平和に穏やかに過ごせる一年になることを願い求めるわけですが、そのように祈る背景には不安があるからだと思います。毎年必ずと言っていいほど、思っても見ない色々なことが起きます。昨年もいろいろな災害がありました。湘南地域では被害は聞きませんが、熊がこんなに危険なことになるとは思ってもみないことでした。教会や私の身の回りでは健康の問題が多くありました。多くの方が病気になりました。かくいう私の家でも、高い道から落ちで足を骨折し、1年経った今も杖をついている家族がいます。病院への送り迎えで大変な1年ではありました。私たちには過去の経験から先を予測する力はある程度あるわけですが、見通す力はありません。だから不安になるのです。
でもキリスト者である私たちがわかっていることは、どのような困難な状況にも神が共におられるということです。2週間前、私たちはクリスマス礼拝・キャロリング・燭火礼拝で、イエス・キリストの誕生により神の到来が始まったこと、そして今私たちは神と共に歩み始めていることを確認しました。神の御子はベツレヘムに生まれました。その誕生は羊飼いたちや東の国から来た学者たちに示され、彼らは救い主にお会いするために出かけて行きました。そしてついに出会った救い主は、まさに彼らそれぞれの心の内に生まれたわけです。言いかえれば、救い主は旅路を歩む私たちの中に生まれるのです。それは決して落ち着いた中に生まれるわけではないということです。しかし救い主に必ず会える、そしてお会いすることができた。この確信こそが平安と平和に繋がり、私たちの歩みの土台になっていくのです。何が起こっても最善を尽くして生きていくことができるように。どんな事態になっても生き抜いていくことができるように。そういう心を備えさせていただくことが、新年礼拝の恵みだと言えます。
今日わたしたちは新年礼拝を迎え、新しい一年の歩みを始めました。ニューヨークでも世界各地で盛大な花火を打ち上げている映像を見ましたが、歳を取るにしたがってあまり感情の変化は無くなるのですが。それでも、そんな私たちのただ中にインマヌエルの神と神の言葉が与えられているということを確認し、希望をもって一年を歩みだしたいと思います。
この朝、私たちに与えられた新約聖書の御言葉はヨハネによる福音書15章1節から10節までです。
わたしはまことのぶどうの木
この箇所で、主イエスは、ご自身のことを「わたしはまことのぶどうの木」と言われています。今日の説教題も、この言葉を使いました。「主イエスはまことのぶどうの木」。このことを主イエスは繰り返し、語っておられます。5節にも「わたしはぶどうの木」とあります。ここで注意したいことは、主イエスは、ご自分のことをぶどうの木に例えられたのですが、「わたしはまことのぶどうの木」と言われ、「まこと」という言葉を加えておられることです。「まこと」。それは真実とか、本当という意味です。私たちが祈るとき、最後に、「アーメン」という言葉を唱えます。この「アーメン」という言葉ですが、旧約聖書の言語であるヘブライ語で、真実です、本当です、という意味です。ですから、私たちは、祈る時、神に対して、真実の心から、本心から、神に祈りをささげます。
「わたしはまことのぶどうの木」。主イエスは、ご自分は、まことの、つまり、真実の、本当のぶどうの木と言われました。この言葉を加えて語られた、というのは、まことではない、真実ではない、本当ではない、偽の救い主、偽の神というものもあるからです。では、本物と偽物をどう見分けたらよいのでしょうか。テレビでご覧になっている方もあるかもしれませんが、あるテレビ番組では、家宝のようにして、先祖から代々受け継いできた大切なもの、壺だとか、掛け軸だとか、それがどれだけの価値があるのか、鑑定士の人たちに鑑定してもらう番組があります。思わず笑ってしまう鑑定結果もありますが、そこで鑑定士が真偽を見分けるコツは何か、というと、本物に親しむこと、本物をよく知ることだ、と言われます。主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木」とご自分のことを言われました。私たちも、まことの救い主、まことの神である主イエスご自身を、よく知ること、常に共にいることが大事なことです。
イスラエルの象徴であるぶどうの木
そもそも、 聖書において「ぶどうの木」とは、どんな意味を持つのでしょうか。 旧約聖書において、「ぶどうの木」というのは、イスラエルの民を示す象徴として使われて います。詩編80編9節では、詩人は次のように歌っています。
あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。
神は、ぶどうの木であるイスラエルの民をエジプトから解放して、約束の地へと導き、そこに
ぶどうの木のように植えられたのです。それで彼らは根を深く張り、全地に増え広がることができました。しかし、そのようにして豊かになると、次第に神の恵みを忘れ、この世と妥協し、神から離れてしまいました。 そのことを嘆かれた神は、預言者イザヤを通して、このように言われます。イザヤ書5章1節、2節をお読みします。
1わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。
わたしの 愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。
2よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。/その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを  掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
ぶどう畑の主人である神は、愛する者のために良いぶどうを植え、丁寧に世話をされたにもかかわらず、そこで実ったのは、すっぱいぶどうでした。神の特別な憐れみと選びによって神の民とされながら、ぶどうの木であるイスラエルの民は、罪に支配され、良い実を結んでいないという事態が生じたのです。 それゆえ、預言者エゼキエルはこのように告げています。
「このぶどうの木は/枝を伸ばし、実を結ぶ /立派なぶどうの木となるように/水の豊かなよい地に植えられていた。語れ。主なる神は こう言われる。このぶどうの木は成長するだろうか。その根は引き抜かれ/実はもぎ取られないだろうか。芽生えた葉はすべてしおれてしまわないだろうか。それはしおれてしまう。それを根から引き抜くのに/大きな力も、多くの人も必要としない。」(エゼキエ17:8-9)
神に信頼することをせず、滅びの道を進もうとしてしまった結果、イスラエルはバビロンに滅ぼされてしまいます。神が植えられた神の民であるぶどうの木は、抜き取られてしまったのです。しかし、それでも神は、人間を見捨てられることはありませんでした。神は、この地に新たにぶどうの木を植えてくださったのです。それがイエス・キリストです。この「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストは、かつてのぶどうの木であったイスラエルの ように、途中で抜き取られてしまうような木でも、すっぱい実しかつけることが出来ないような木でもありません。私たちを永遠の命につながらせる祝福の源として、私たちに豊かな 実りをもたらし、私たちから離れることなく共に生きてくださるのです。その主イエスは「わたしにつながっていなさい」と言われます。では、私たちは、どのようにして主イエスと繋がれるのでしょうか。植物の栽培方法の一つに接ぎ木があります。私は実際にやったことはないのですが、私たちは、主イエス・キリストというまことのぶどうの木に接ぎ木されたのです。私たちは、元々すっぱい実しかならないような木に生えていた枝でした。それを農夫である神が接ぎ木してくださったのです。そのように考える事が出来ます。けれども、接ぎ木をするには、その土台となる木に切れ目を入れて枝を差し込まなければなりません。木の方は傷を負わなければならないのです。この傷こそ、主イエス・キリストの十字架です。 私たちをご自身とつなげてくださるためにキリストは傷を負ってくださったのです。私たちを新しい命に生きる者とするために、キリストは自ら十字架の贖いとなってくださったのです。 本来であれば、外に投げ捨てられ、火に投げ入れられて焼かれてしまう、私たちはそんな枝でした。しかし、そんな私たちを主イエスはご自分につながるものとしてくださったのです。そして、私たちを「清い」ものとしてくださったのです。3節には「わたしの話した言葉 によって、あなたがたは既に清くなっている。」とありますが、ここで使われている「清い」 という言葉は、じつはその前の2節にある「手入れをする」という言葉と同じ言葉です。つまり、私たちはもう既に、まことの農夫である神が、豊かに実を結ぶようにと手入れをしてくださる「実を結ぶ」枝とされているのです。私たちの将来には、約束された確かな希望があるのです。 神は、これほどまでに私たちのことを愛しておられるのです。イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、私たちの罪を赦し、私たちを清いものとしてくださっているのです。私たちは、そのような神の愛を受けているのです。その愛を知り、その愛に留まること。それが、まことのぶどうの木につながるということです。
キリストの愛にとどまる
今朝の最後の個所、10節で、「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」と主イエスは言っています。「とどまる」とは、持続または継続を表します。一度だけ信じるのではなく、それが生きて継続しつづけるには、もう一つの力が必要なのです。神からの力が必要です。既に主イエスを信じている者も、主イエスにとどまりつづけることが求められます。そうすれば、主イエスもとどまってくださいます。私たちは生きたキリストにしっかりとつながれていなければなりません。花瓶いっぱいに花を飾っても、切り花では実を結びません。根をしっかりと張っていなければなりません。
今年、大磯教会は牧師交代という大きな変化があります。牧師はある時期が来ると交代します。年齢的な面からのこともあるし、召命感のこともあるし、健康や家族のことからの交代もあります。先日、長老・執事修養会が横浜指路教会でありましたが、ある教会の長老が、牧師の交代がしばしばあることが問題だというようなことを言っていました。少し前のことのようですが、その教会では牧師の交代が続いたようです。逆に教会によっては30年、40年と同じ牧師ということもあります。短い場合もあれば長い場合もあります。いろいろなケースがあります。ある程度長期間、牧会しないと、教会形成できないし伝道も進まないということもあるし、長すぎると牧師の好む教会になってしまう弊害もあります。いずれにしても牧師はある時期が来れば交代しますが、長老はその教会にシッカリと根を張って教会を守って行くのです。ある長老が、新しく教会に入会された方へのアドバイスとして、教会では、人を見るのではなくキリストを見るように。とアドバイスしていました。確かに、牧師にしても信徒にしても、長老にしても人間ですから、良いところも欠点もあります。相性の良い人も悪い人もあるのが当たり前です。まことのぶどうの木である主イエス・キリストにしっかりとつながっていなければならない、という今日の主イエスのたとえ話は真実です。抽象的な話ではありません。説教で語られる御言葉の中にキリストの言葉を聞き、真実の言葉に信仰の成長を願う、聖霊の導きを祈りたいと思うのです。
つながっていれば実を結ぶ
このたとえ話には「つながっている」という言葉がちりばめられています。
主イエスにつながる、ということです。主イエスの言葉を聴いて受け入れる。それが、主イエスにつながるということです。この「つながる」という言葉は、「留まる」とか、「住む」という言葉でも訳されます。そうしますと、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。この主イエスの言葉は、「主イエスは、私たちに、私の中に住んでいなさい、と言われ、主イエスは、私もあなたがたの中に住んでいる、と言われた」という意味になります。
主イエスが、私の中に住む。私が、主イエスの中に住む。そのために私たちはどうしたらよいかというと、自分の心のドアを開くことです。主イエスは、私たちの心のドアの前に立っておられます。けれども、主イエスの方から、無理に私たちの心のドアをこじ開けるようなことはなさいません。心のドアを開くか、閉じるか、そのことは私たちに任されています。ですから、私たちが、自分で心のドアを開かなければ、主イエスは、入って来ることはできないのです。主イエスは、ある時、ザアカイという人にこう言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19章5節)。ザアカイは、ドアを開いて、主イエスをお迎えしました。そして、主イエスは、今、私たちにも言われます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。信じるというのは、主イエスを自分の心にお迎えすることです。そうするならば、主イエスは、私たちの心に、私たちの人生に、お住まいになるのです。
流れのほとりに植えられた木
今朝私たちに与えられた旧約聖書の詩編1編に
2主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人.
3その人は流れのほとりに植えられた木/ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
とあります。「主の教えを愛する人」は、日々喜びを抱いて「その教えを昼も夜も口ずさむ人」であると詩人は語ります。強いられた奴隷のような礼拝は決して神の前には受け入れられません。心に喜びを抱きつつ神に近づき、その教えを大いに楽しみとする者でなければ、律法を学ぶにふさわしくないということを作者は歌っているのです。
「流れのほとりに植えられた木」と詩人は歌います。乾燥した大地では、そうした水路のほとりに植えられた木は生き生きと茂るのです。パレスチナにおいては、水は貴重であり、その流れは砂漠に花を咲かせ、植物に生命を与え、実を結ばせるのです。3節の最後に「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」という言葉があります。つまり、信ずる者は何を企てても成功すると歌っているこの表現からは、ただ神のみ心に従って人生を歩むという、強烈な信仰の楽観主義が伝わってきます。新しい1年を私たちも主イエスの幹にシッカリとつながった枝でありたいと思います。
祈ります。

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