はじめに
今朝の話しも主イエスの語られたたとえ話からです。先週は「十人のおとめのたとえ」という箇所でしたが、これで4つ目のたとえ話になります。今朝のたとえ話もキリストの再臨、または終末に関わるたとえです。「タラントンのたとえ」。この話のポイントは実にシンプルです。すなわち、それぞれが神から預かっているタラントンつまりタレント、賜物を日々大切に用いて生きることを勧めているのです。私たちには、それぞれ神から預かっているタラントンがあるのです。それは自分の才能、知識であったり、富や健康、体力であるかもしれません。あるいは人への思いやりの心であるかもしれません。誰でも必ずあるのです。それらはどれもすべてその人が神から頂いた、託された恵みであり、その人が神の愛によって生かされていることの証しであると言えるでしょう。この神の愛の証しであるタラントンを、どう用いて生きるのかが問われているのです。
ところで、個人的なことになりますが、牧師を引退する時期が近づいてきたので、自分のこれまでの生き方を振り返ることも多くなりました。大磯教会に招聘されて16年になる訳ですが、後から教会員は鈴木牧師のことをどう言うのかな。と考えたりします。鈴木牧師の時代に教会堂が登録文化財になったとか、牧師館が新しく出来たとか。確かに同じ教会で2回も会堂建築に携わる牧師はあまりいないかもしれません。結果的に牧師館建築のために来られた牧師と言われるかもしれないな、と思ったりします。たまたま招聘されて愛知県から着任した時に、会堂の外壁が劣化して塗装も剥げていたので、私はどんどん一人で塗装し始めました。確か長老会にも相談して行ったと思いますが、礼拝堂の二階の窓から身を乗り出して命がけで塗装していた私の姿を見て、近所の人もさぞ驚かれたことでしょう。裏の駐車場も、来た当時は何本も太い木が植わっており、私の目には雑草で覆われているように思いました。車が1台入れられる駐車場はありましたが、私は伊勢原にいる兄にも手伝ってもらい教会員が利用できるように駐車場を作りました。チェーンソーで何本も木を切り倒しました。古い木造の物置がありましたが、1人で解体して駐車台数を増やしました。礼拝堂の裏に今と同じように集会室と小さなキッチンがありましたが、物で一杯でした。私はどんどん処理させて頂いて、教会員が集まれる集会室を復活させました。それらの延長線上に会堂建築もあったのです。会堂建築での重荷と労力を尽くしたのは教会員です。60歳で初めて牧師となった者としては、非常識と言われる面も、今考えるとあったかもしれません。しかし、私のタレントであったのかとも思います。その原点は、私の父親にありました。父は、私の子供のころから、通っていた教会のちょっとした修理や、自宅の大工仕事にいつも私を助手にして手伝わせました。今でも覚えていますが、必要もないほどのコンクリートのがっちりした自宅の門を作っていました。私は嫌でしたが、いつの間にか自分もコンクリートをこねるのが好きになってしまい、今でも自宅ではしています。タレントという言葉はタラントンから来ています。タラントンは、それぞれに後から与えられる神からの恵みです。この神から与えられたタラントンを、どう用いて生きるのかが問われているのだと思います。
能力に応じて
本来タラントンはお金の単位です。当時の一日の労賃が1デナリです。1タラントンは6,000
デナリに相当します。日当が1万円としても、1タラントンは6,000万円です。タラントンは
相当大きなお金の単位であることがわかります。そのためにタラントンという単位はユダヤ社会
の日常生活ではあまり使われることはありませんでした。
ところが主イエスはこのたとえ話の中でタラントンの単位を使いました。ある主人が3人の僕
にそれぞれ五タラントン、二タラント、一タラントを預けて旅に出ました。主人がお金持ちであ
ることは、主人が帰ってきてお金の精算をする時、預けたお金を「少しのもの」(21)と言って
いることでわかります。このたとえ話の主人とは神であると言われます。確かに神なら世界
はすべて神のものですから、神にとっては何タラントンでも少額でしょう。ところが人間は大富
豪であっても所有するものを永遠に保つことはできません。私たちは地上に生かされている間、
一時的にその財産の管理を任されているだけなのです。ではなぜ預けた金額が違ったのでしょ
う。「それぞれの能力に応じて」(15)とあります。五タラントン預かった僕には、五タラント
ンに価する才能があると考えられます。そこから才能や能力をタレントと呼ぶようになったと言
われます。
賜物の使い道
かなり時がたってから、主人が旅から帰ってきて僕に預けたものの清算が行われます。五タラ
ントン預かった僕はそれをもとにもう五タラントンもうけました。主人はこの僕をねぎらいま
す。主人は僕の商才や管理能力をほめているのではありません。ほめているのは彼の忠実さなの
です(21)。彼は主人が自分に大金を預けてくれたので、その愛と信頼に応えようと忠実に働い
たのです。同様に二タラントン預かった僕も倍の四タラントにして返しています。主人は忠実に
働いた僕たちに「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。」と言っ
てごほうびをくださいます。主人は財産が増えたことよりむしろ、忠実な僕たちに感激して喜ん
でいます。ところが一タラントン預かった僕は、主人を信頼するどころか恐れをなして、一タラ
ントンを地面に埋めて隠してしまいます。この場合主人が怒った理由は、一タラントンも増えて
いないことではありません。せっかくの主人の期待を裏切り、僕が怠けて地面に埋めてしまい、
タラントンを少しも活用しなかった態度を怒ったのです。結果一タラントンは取り上げられてタ
ラントンの者に授けています。
神があなたに託されたものは
このたとえは天の国、つまり神の国について説明しています。やがて主イエスが再び来られる
時、すべての人は神の前で決算が始まります。だから私たちは神がいつ来られても良いように
備えておくべきだということなのです。神は私たちの人生が能力に応じて生かせるように、たく
さんの才能や財産を与えてくださっています。それらの宝は浪費するためでなく、それを用いて
生かし、より豊かにすることです。そのように生きることを神は望まれて、それを一緒に喜んで
くださるのです。一タラントンでも6千万円ぐらいの値打ちはあるわけですから、二タラント
ン、五タラントンと比べて、自分には少しのタラントしかないと落ち込む必要はありません。む
しろ一タラントンを大切にして、自分のようなものでも、これだけのものを預けてくださったと
神を信頼するべきでしょう。喜んで一タラントンを生かすことです。一タラントンを生かしきる
ために失敗やリスクを恐れず、冒険に乗り出していくことです。タラントンは使えば使うほど豊
かになります。土に埋めてはいけないのです。私たちは、神があなたに託されたタラントンを発
見するたびに、それを生かし用いているでしょうか。
神不在の現実の中で、神と共に生きる
ところで、このたとえ話において、主人は旅に出かけました。つまり、主人は「不在」となっ
たのです。これは私たちが生きている現実を表していると思います。「神不在」、それが私たち
の目に移る世界の現実です。戦争があり、抑圧があり、弱い立場の人々が、命が、人としての尊
厳が全く蹂躙されている現実があります。世界中で戦禍はどんどん広がっているように思えま
す。自由で民主的な国、アメリカはどこに行ったのかと思います。災害や事故、さまざまな事件
という不条理な悲しみが襲う。聖書に書かれているような「すべてを守り導く神」「苦難を取り
去ってくれる神」がおられるならば、どうして今こそ助けてくださらないのか。神はどこにもお
られないのではないか、という不信や絶望が満ちているのです。「我が神、我が神、なぜわたし
を見捨てられたのか」とどんなに叫んでも呻いても、そこに返答はないのです。
ある説教者が語っていることですが、ナチス抵抗運動によって捕らえられたボンヘッファーの
その獄中書簡を引用して語っています。
「神の前で、神と共に、我々は神なしに生きる」と。
これはどういう意味なのか。「神の前で神と共に」と「神なしに生きる」は矛盾した言葉のよ
うです。「神なしに」という言葉をどう理解したらよいのでしょうか。ボンヘッファーが言おうとしているのは、一つは困った時に颯爽と現れて助けてくれるような神、祈れば戦争をただちに終わらせ平和を与えてくれるような神、災害を無くしてくれる神、差別や事故や病気を無くしてくれる、そんな人間に都合の良い、便利な神などいないということ、そのような考えからはそろそろ目を覚まし、卒業して「成人した信仰」を持ち、一人の人間として主体的に責任的に生きるように、とその説教者は語っているようです。「神なしに」。しかし、まさにそこで「神の前で、神と共にある」ということが同時に深く見つめられるのです。ボンヘッファーは続けてこう述べています。
「我々は、神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる。神は御自身をこの世から十字
架へと追いやられるにまかせる。神はこの世においては無力で弱い。まさにそのようにし
て、彼は我々の下におり、また我々を助けるのである。キリストの助けは彼の全能によって
ではなく、彼の弱さと彼の苦難による」
キリストは、飼い葉おけに生まれ、この世の力に追いやられるままに十字架上で死なれました。あざけられ、痛めつけられ、裸にされたその姿は全くの無力です。弱さの極みです。しかし、キリストはまさにその十字架の弱さの中でこの私を、この世を引き受け担われたのです。神がどのようにして私たちと共におられるのかというと、圧倒的な力強さにおいてではなく、むしろその無力さ、貧しさ、惨めさ、苦難の姿においてなのだということをボンヘッファーは見つめたのです。人間が中心となり、「神などいない」と豪語するおごりや反逆や不法に満ち、これを繰り返す世界の中で、あるいは「神などいないではないか」と絶望する人々の中で、しかしまさにそこに神は共におられ、すべてを引き受け担っておられるのです。「我々は、神の前で、神と共に、神なしに生きる」、この信仰がボンヘッファーをまことに強く生かしたのです。
天の国はここに
今、目に見える世界の現実は、「神不在」のようです。一体「天の国はどこにあるのか」、
「どこにもないではないか!」との嘆き、あるいは神をあなどる現実が満ち溢れています。しか
し、そこに「天の国はここに在り」「神共に在り(インマヌエル)」という真理を信じ見つめつ
つ、自分に託されたタラントンを主のものとして責任をもって、特に他者への愛をもって日々用
い、やがてお返ししていく生き方が、私たちに問われているのです。そこに天の国に生きる者の
命の輝き、幸いはあるのです。
精算のとき
かみからお預かりしたものには清算の時があります。それは、再臨の時を示します。
主人はそれぞれの歩みを確認します。五タラントン、二タラントンのしもべは、能力に応じてタラントを用いました。そして、主人の評価のポイントは、どんな成果を挙げたかではありませんでした。「忠実」であること、それはゆだねてくださった神への姿勢です。主人は、その忠実さこそ、主人の信頼に対するふさわしい応答だと評価しています。そして主人は、彼らがもうけた分も含めてそれぞれの僕に与えます。主人は何一つ自分の所有物としていないのに、それぞれの「忠実」を喜んだと記されています。神は私たちの忠実さを喜んでくださいます。一方「忠実」の対比表現は「怠惰」であり、それは悪いことだと評価されました(26節)。
持っている者、持たない者
「良い忠実なしもべ」と「悪い怠け者」を分けたものは、何だったのでしょうか。3人とも主人のものを預けられていること、そして主人との清算の時があることを理解していました。1タラント預けられた人が地面に隠してしまったのは、働かずに遊びたかったからではありません。そういう「怠け」ではありません。その理由は、この主人が「能力に応じて」ゆだねてくれたのに、能力以上に要求する厳しい方だと思い込んでしまったからです。(24,25節)。主人は自分のことを知っていてくださる、愛してくださっているという信頼がありませんでした。この信頼がなければ「忠実」は生まれません。「忠実」は主人への愛と信頼への応答です。これを表しているのが、「持っている者」「持たない者」です。「持っている」とは、タラントンの有無や能力の有無ではありません。全ての人にタラントンは預けられているのです。「持っている者」とは、主なる神への信仰を持っている者ということです。そして、神はこの信仰をもって忠実に生きることを喜んでくださるということが、たとえを通して明らかにされています。この信仰がなければ、天の御国に入ることはできません。再臨を待って生きる地上での歩みを左右するものはこの信仰であると、主イエスは教えてくださっているのです。
お祈りします。
新しい年も、私たちは、自分に与えられたタラントンを主のために生かしていきたい、聖霊が生かしてくださるように祈りたいと思います。 お祈りします。