主イエスから問いかけられる
今朝ご一緒に読む聖書の箇所、ルカによる福音書第10章25節以下には、主イエスがお語りになったいくつかのたとえ話の中でも最もよく知られている、「善いサマリア人」の話が語られています。主イエスのたとえ話の中でも、「放蕩息子」のたとえと同じぐらい有名なたとえ話です。しかしこのたとえ話で見つめられているのは決して当たり前のことではない。私たちは今朝の箇所を読み進める中でこのことに気づかされていきたいのです。
主イエスから問いかけられる
「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして」このように言いました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。この問いかけからすべては始まります。「問いかけ」と言いましたが、彼は主イエスに質問したかったのではありません。そうではなく「イエスを試そう」としたのです。主イエスがどのように答えるかテストしようとしたのです。
ところが主イエスは、その問いに答えられるのではなく、逆に律法の専門家に問いかけられました。問いかけに対して問いかけで返されたのです。主イエスはこう言いました。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。主イエスに問いかけた者が、主イエスから問いかけられる者になったのです。私たちも信仰生活の中で同じようなことを経験します。この律法の専門家のように主イエスをテストしようとすることはないとしても、私たちも疑いつつ主イエスに問いかけることは少なくありません。私たちは疑いや嘆きを主イエスに問いかけることが許されています。たとえ自分の苦しみや悲しみばかりに囚われ疑い嘆くときも、主イエスはその疑いや嘆きを受けとめてくださり、疑い嘆きの中にある私たちと共にいてくださるのです。しかし、私たちは信仰を持って歩んでいく中で、主イエスに問いかけるだけでなく、主イエスから問いかけられることがあるのです。日々の生活の中で、小さなことから大きなことまで、私たちには決めなくてはならないことがたくさんあります。どう対応したらいいのか、何を優先したらいいのか、何を選べばいいのか悩みます。そのようなとき信仰による決断を求められていると感じるのではないでしょうか。
ところで、律法の専門家は、主イエスに答えました。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」まさに専門家らしい模範解答です。それに対して主イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさいそうすれば命を得られる」と言われたのです。
わたしの隣人とは誰ですか
しかし、律法の専門家は、自分を正当化しようとして「では、わたしの隣人とはだれですか」と言ったとあります。彼が主イエスに問いただしたかったのは、「誰がわたしの隣人か」という点でした。主イエスは当時の人々から「罪人」だと思われるような人たちとばかり付き合っていました。神の民であるユダヤ人の中でも、売春婦や、ローマの手先となって働く徴税人、そんな連中とばかり親しく付き合う主イエスは、イスラエルの清さを損なう危険な行動をしていると見ていたのです。そこで、この点では自分の方が正しいと主張しようと、「では、わたしの隣人とはだれですか」と、律法の専門家は主イエスに尋ねたのです。しかし、これも答えは明らかでした。律法の専門家にとっての隣人とはユダヤ人のことなのです。それは自明な事柄でした。彼はこれまで正しく隣人を選択し、隣人愛を実践してきたという自負を持っていたに違いありません。ところが主イエスは仰天するようなことをおっしゃったのです。祭司やレビ人のような熱心で律法に忠実な宗教家ではなくて、口にするのも汚らわしい不敬なサマリア人のことを義としたのでした。 「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」という主イエスの問いかけは決定的でした。「その人を助けた人です」という彼の答えの中に、律法の専門家の苦い心情が手に取るように伝わってきます。彼はサマリア人という名を言うことすら嫌だったのです。主は命じます。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。愛とは知識ではなく実践なのです。ここで「誰が私の隣人か」という律法の専門家の問いが、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったか」という問いに逆転させられていることに注意したいと思います。つまり、前者は私中心ですが、後者は弱い立場に置かれた者が中心です。誰が「私の」隣人であるかという自己中心的で静的な問いが、私が「誰の」隣人となるかという小さい者を中心とした動的でダイナミックな問いに変えられている。自分の周りに自分の隣人を捜すのではなく、自分が実際に隣人となってゆくことが求められているのです。私たちもキリスト者として主からそのようなチャレンジを受けているのです。
このサマリア人は主イエス・キリスト
しかし私たちはこのサマリア人のようにはなれないと思わざるを得ません。私たちはこのことに打ちのめされるしかないのでしょうか。隣人を愛そうと思っても愛せない自分の罪に苦しむしかないのでしょうか。そうではありません。このサマリア人の姿もまた、私たちの姿だからです。キリスト教会の歴史においては、このたとえ話のサマリア人は、主イエスであると受けとめられてきました。このサマリア人に主イエスを見るのです。なぜなら33節の「その人を見て憐れに思い」の「憐れに思い」と訳されている言葉は、基本的に主イエスに用いられる言葉、あるいは父なる神に用いられる言葉なのです。ルカによる福音書7章11節以下で、主イエスは一人息子を失った母親を見て「憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」と語られていました。また15章11節以下の「放蕩息子のたとえ」でも、放蕩の限りを尽くした後に帰ってきた息子を見つけた父親が「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と語られています。この父親の姿は父なる神のお姿です。ですから主イエスが「憐れに思う」、あるいは父なる神が「憐れに思う」というように使われるのです。この言葉は人間の内臓を意味する言葉に由来するため、「憐れに思う」を「はらわたが痛む」と訳した方がいます。「心を激しく動かされる」と訳すこともできます。主イエスは、一人息子を失った母親の悲しみをはらわたが痛むほどに憐れんでくださり、父なる神は、失われた息子が帰ってきたのを見て、走り寄って首を抱きしめ接吻するほど心を激しく動かされるのです。そうであるならば半殺しにされた人のそばに来て、その人を見て、はらわたが痛むほど憐れに思い、心を激しく動かされて傷の手当をして、宿屋に連れて行って介抱したサマリア人は、主イエス・キリストにほかならないのではないでしょうか。そして半殺しにされた人とは、罪と死の力によって死にかけている私たちです。主イエス・キリストこそ、罪と死の力によって死にかけている私たちのそばに来てくださり、憐れんでくださり、十字架で死なれることによって私たちの深い傷を癒してくださり、そして甦ることによって私たちを新しく生かしてくださったのです。だからこのサマリア人は、主イエス・キリストにほかならい。そのように言えるのです。
傷ついた癒し人
ある説教者がこういう話をしていました。あるカリフォルニアの牧師たちの会で、サマリア人の譬えを用いて、このたとえの中の人物で自分がどの人に近いかの質問をしたところ、ほとんどの牧師たちが自分は祭司でありレビ人に近いと答えたそうです。よきサマリア人とはなれないでいる自分に罪悪感を持っていた。なすべきことは分かっていてもそれを行うことができない、そのような苦しみを牧師たちは感じていたのです。しかし、その説教者は言いました。この譬えはしかしそのような私たちに対しても語りかけられているのではないか。強盗に襲われて傷つけられ、半殺しの目にあって血をどくどく流しながら倒れて死にかかっている私たち。そのような私たちに、よきサマリア人として深い憐れみをもって近づいてきてくださり、傷を介抱してくださるお方がいる。それこそ私たちの主イエス・キリストではないか。私たちはこのお方の深い憐れみのゆえにもう一度新しく生命を回復され、新しい歩みを踏み出してゆくことができるのだと。感動的な話だと思います。そのように読むときに私たちは主イエスのたとえ話の奥深さを知るのです。さらにもう一歩踏み込んで言うならば、主ご自身、強盗に襲われて傷ついた旅人のような姿であのゴルゴダの十字架の上にかかってくださったということを私たちは知っています。主イエスはご自身の傷によって人々を癒す「傷ついた癒し人」なのです。主イエスは人々を徹底的に愛し抜くことの中に父なる神への愛をも貫いた。水平の愛と垂直の愛がクロスするところにキリストのクロス(十字架)が立っているのです。
隣人を愛せない
日本基督教団が発行している「教団新報」という新聞に、だいぶ前の号に隠退教師が新しく牧師になる人たちの新任教師オリエンテーションで語った記事に胸を打つものがありましたので紹介します。
上林順一郎という隠退教師が牧師としての人生を振り返って新任教師に語っているのです。インターネットのウェブで調べてみると、上林順一郎牧師は、大阪生まれて、早稲田教会や浪花教会などを歴任された牧師です。上林牧師はご自分の牧会について、こう語っていました。紹介します。
上林牧師の神学校時代は60年安保の嵐が吹き荒れ「このままでよいのか」と悩みながら牧師になっていったという。ある教会では学生運動の余波で分裂状態となり、一方のグループが教会を去ってしまった。そこで問われたのは「自分は去って行った人たちのために祈っているか」ということであった。また、酔った状態で礼拝に来た人に退席してもらったことがあった。なぜ「そこに座ってていいよ」と言えなかったのかと悔やんだ。上林牧師はこうした経験を通して「キリストと共に死んで行く牧師になりたいと思うようになった」と述べでおられます。
私が注目したのは後半のことです。上林牧師は「酔った状態で礼拝に来た人に退席してもらった」ということが、恐らくいつまでも自分の心に残っていたのだなと思いました。80歳過ぎても、牧師としてその行為が悔やまれたのだと思います。
私自身のことで恐縮ですが、24歳から地方公務員として働き、40歳で神奈川県から愛知県に移住し、出版社、建設会社、興信所、人材派遣会社、マンション管理会社、行政書士などいろいろな職業を転々としました。教団の教師試験に独学で合格し、大磯教会に赴任したのが2009年で、以来16年間牧師として牧会してきました。牧師としては決して長くはない期間ですが、もう少し親身になってあげられたらよかったのにと反省することがあります。また、あまり長い祈りをした方に注意して教会に来なくなったこともありました。しかし、牧師時代よりも教会の信徒時代に、ある牧師と教会員が対立し、長老であった私は教会員の味方をし、牧師を追求し、牧師を辞任に追いやってしまったことが心残りです。正義感でやったつもりでしたが、なぜ寛容になれなかったのか。今でも心の痛みです。
牧師であっても、また、教会に何年通っていても、律法学者と同じなのではないか。人を赦せないのです。主イエスのようには、苦しんでいる人を受け入れられないのです。愛せないのです。
主イエスが伝えていること
主イエスは、律法学者にこう伝えたかったのです。あなたは、わたしが罪人ばかりと付き合うことを不審に思ったかもしれない。しかし、彼らは助けを求めているのです。わたしは彼らを助けたいし、彼らの隣人になりたいのだ。あなたにもそうなってもらいたい。壁を壊し、敵ですら隣人とするような行動を選び取ってもらいたい。誰を自分の隣人にするのか、それはあなたの選択にかかっている。あなたが隣人と思わないような人たちも、あなたの隣人になり得るのです。あなたもサマリヤ人のように行動しなさい。霊的に死にかけている人たちのところに行って、彼らの隣人になりなさい。彼らもあなたの隣人になってくれるでしょう。主イエスはこのように言いたかったのです。そして、「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)という主イエスのお言葉は、私たちにも与えられているのです。主イエスは、永遠のいのちへ至る道として、「隣人を愛する」という教えを実践しなさい、と言われました。そして、隣人とは自分の周りにいる似たような人たち、気の合う人たちのことだけではなく、自分から積極的に作るものだ。敵すらも隣人に変えることができるのだと教えて下さいました。しかしながら、私たちの現実は、自分が生きることで精一杯です。それでいいのですが、主なる神と隣人を愛することの出来ない私たちをお赦しくださいと祈ることしかできません。この悔い改めと祈りを忘れずに進む以外に、私たちは信仰の道を歩めないと思います。けれども、この悔い改めのあるところに、神の愛と赦しもまた、豊かに私たちに注がれるのです。私たちのできることをしていきたいと思います。 お祈りします。