はじめに
私たちは、しばらくの間、たとえ話の聖書箇所から御言葉のメッセージを聞いてまいりましたが、今日が最後になります。2月18日(水)から受難節に入りますので、その個所から御言葉を聞きます。そういうわけで、今朝の御言葉は聖書のたとえ話の最後になりますが、ローマの信徒への手紙ですから、パウロが語ったたとえです。早速、その御言葉から聞いてまいりましょう。ローマの信徒への手紙は、9章から11章において一つの主題を扱っています。それは、神の民であったはずのユダヤ人が今、救い主イエス・キリストにつまずいており、救いから落ちてしまっている、そのユダヤ人のつまずきをどう受け止めたらよいのか、そして彼らはこれからどうなるのか、ということです。自分自身もユダヤ人であるパウロは、同胞のつまずきを深く嘆き悲しみ、彼らの救いを切に祈り求めつつ、この問題と向き合っています。そしてこの11章でパウロが語っているのは、ユダヤ人が今キリストにつまずいているのは、それによって、本来神の救いとは縁のなかった異邦人にもキリストによる救いがもたらされるためだった、そしてそのことを通して、ユダヤ人たちももう一度目覚めさせられて、キリストによる救いにあずかっていく、そういう神のご計画がその背後にあるのだ、というようにパウロは考えるのです。だから今つまずいているユダヤ人も、神に見捨てられてしまったわけではない、パウロはまさに祈るような思いでそのように語っているのです。私には、パウロのこの問題意識は、今まさに、イスラエルがガザや周辺のイスラム諸国と争っている世界の状況に重なって見えるのです。
ローマ教会への手紙
さてここで私たちはもう一度、このローマの信徒への手紙が、ローマの教会の人々に宛てて書かれた手紙であるということを思い起こしたいのです。つまりパウロは、この手紙を受け取るローマの教会の人々のことを思い浮かべながらこれを書いているのです。ローマの教会に連なる人々の多くは、ユダヤ人ではなくて異邦人でした。「全ての道はローマに通ず」と言われるように、ローマ帝国の首都であるローマには、当時の世界の様々な地域から人や物が流れ込んでいました。その中にはキリスト信者となったユダヤ人たちもおり、彼らがローマの教会の礎となったことは間違いないでしょう。しかしこの教会に連なっている人々の多くは、ユダヤ人ではない異邦人でした。今朝の箇所の少し前の13節でパウロが「では、あなたがた異邦人に言います」と言っていることからもそれが伺えます。パウロは、異邦人が主たるメンバーであるローマの教会に宛ててこの手紙を書き送っているのです。17節以下で「あなた」と言われているのは、異邦人のキリスト信者のことです。言うならば私たちキリスト者のことと言ってもいいでしょう。この部分は、異邦人とユダヤ人の違いを意識しつつ、異邦人であるキリスト信者たちに「あなた」と呼びかけているところなのです。
異邦人すべての問題
パウロにとって同胞の救いの問題は、切実な祈りの課題だったことはよく分かります。しかしパウロがこのことを、異邦人が主たるメンバーであるローマの教会に宛てた手紙において、これほど力を込めて語っているのは何故なのでしょうか。異邦人であるキリスト信者たちにしてみれば、それは我々には関係のないことだ、ということにならないでしょうか。ユダヤ人がキリストにつまずいて救いから落ちてしまっていることは確かに残念なことだが、しかしそれは我々の問題ではなくてユダヤ人の問題だ、パウロ先生は自分がユダヤ人だからこのことが頭から離れないのだろうが、我々にしてみればそれは自分の事柄ではない、と思われても不思議はないのです。私たちもローマ教会の異邦人以上にそう思うのではないでしょうか。私たちは日本人で、いわば異邦人です。そして私たちの教会には、ローマの教会とは違ってユダヤ人であるメンバーはいません。ユダヤ人の知り合いがいる、という人も数えるほどしかいないでしょう。ユダヤ人は私たちにとって、ローマの教会の人々の場合よりもはるかに遠い存在です。しかし私たちはここで、パウロが、異邦人が主たるメンバーであるローマの教会に宛てたこの手紙において、ユダヤ人のことをこれほど力を込めて語っていること、特に異邦人に対してこのことを語っていることを重く受け止めなければなりません。パウロがこのように語っているのは、このことが異邦人たちの信仰にとっても大切なことだからです。ユダヤ人のつまずきの現実の背後にある神のみ心、ご計画を知ることは、異邦人である私たちにとっても、欠かすことのできない大切なことなのです。それゆえに私たちも、この箇所から、私たちに対する大切なメッセージを聞き取っていきたいと思うのです。
聖書が語るオリーブの木
パウロはオリーブの木を接ぎ木するたとえを語っています。近年、私が住む二宮町ではオリーブ栽培が奨励されています。今、吾妻山の菜の花もきれいで観光客もよく来ていますが、オリーブ栽培も盛んで、オリーブ油の製品など売っています。私の家の庭に植えたオリーブの木は非常に良く育ち枝を切ってもすぐに伸びてきます。世界にオリーブの木の品種は1500種類ぐらいあるようですが、日本では60種類ぐらいあるようです。オリーブの木は熱さ寒さに結構強く、乾燥にも強いのが特徴です。そしてオリーブは2千年以上も生きることが出来るらしい。そして実をよく結び、その葉、枝は絶えず成長し、接ぎ木に非常に適していると言われます。
野生のオリーブが接ぎ木された
ユダヤ人が主イエス・キリストにつまずいたことによって、救いが異邦人にも及んだ、ということがこれまでの所で語られてきたわけですが、パウロは17節において、そのことは救いにあずかったあなたがた異邦人の側から言うとこうなる、と語っています。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになった」。「ある枝が折り取られた」というのが、ユダヤ人がキリストにつまずいて救いから落ちたことです。その後に、「野生のオリーブであるあなたが接ぎ木された」、それが異邦人が救いにあずかったことです。異邦人は「野生のオリーブ」だと言われています。野生のというのは、神によって手入れされていない、ということであって、そのままでは良い実を結ぶことなどあり得ないということです。そういう枝である私たち異邦人が、神の救いの木に接ぎ木されて「根から豊かな養分を受けるようになった」というのです。このたとえによってパウロが言おうとしているのは、あなたがた異邦人が救いにあずかったのは、あなたがた自身の力や素質によることではなくて、根から豊かな養分を受けたことによってなのだ、ということです。その根に元々つながっており、養われていた枝はユダヤ人たちです。ユダヤ人たちは神によって大事に手入れされ、養われていた枝なのです。しかしイエス・キリストにつまずいたことによって彼らは折り取られ、その代わりに本来はそのような恵みを受けるに値しない野生の枝であるあなたがた異邦人が根に接ぎ木され、神の救いにあずかっている、とパウロは言っているのです。異邦人の信仰者はこのことをしっかりわきまえておかなければならない、とパウロは言っているのです。
誇ってはならない
自分たちは根に接ぎ木されて救いにあずかった、そのことをわきまえるとは具体的にはどういうことでしょうか。それが18節に語られています。「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」。折り取られた枝、つまりユダヤ人に対して、接ぎ木された野生の枝である異邦人が誇ってはならないのです。異邦人がユダヤ人に対して誇って語る言葉が19節です。「すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう」。ユダヤ人が折り取られ、救いから落ちたのは、私が接ぎ木されるためだった、つまり神は私たち異邦人が救いにあずかることをお望みになったのであって、ユダヤ人のような頑なな、自分たちだけが選ばれた民だなどと奢り高ぶっている連中は見捨てられるのだ…、そういうことを思い、語っている異邦人の信者たちがいたのです。先ほど触れたように、異邦人である私たちは、今のイスラエルのやり方を見ると、その頑ななやり方、力で押し切る攻撃に抗議したくなるのです。自分たちだけが選ばれた民だなどと奢り高ぶっているのではないかと。それは、アメリカにもロシアにも言えるのですが、力によってすべてを押し切ることは、これから日本にも起こりそうに思いますが。しかし、パウロは、異邦人の信仰者がそのような誇りに陥ることがないように戒めているのです。
不信仰と信仰
パウロは今の19節の異邦人の誇りの言葉を受けて20節で「そのとおりです」と言っています。「ユダヤ人が折り取られたのは異邦人が接ぎ木されるためだった」というのはその通りだ、神のそういう御心があったのだ、と認めているのです。けれども、あなたがたはそのことの意味を正しくわきまえなければならない。それが20節の後半です。「ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」。パウロが異邦人の信仰者たちに語りかけていることの中心はここにあります。ユダヤ人がつまずいて救いから落ち、代ってあなたがた異邦人が救いにあずかっている、それは、彼らの不信仰とあなたがたの信仰とによって生じたことだ。ユダヤ人が折り取られたのは、主イエス・キリストによる神の救いの恵みを信じなかったからであり、それ以外の、彼らの何らかの資質や悪い行いによることではない。逆にあなたがた異邦人が接ぎ木されたのは、主イエス・キリストによる神の救いの恵みを信じたからであり、それ以外の、あなたがたの何らかの資質や良い行いによることではない。だから思い上がってはならない。自分が神の救いにあずかったことを、自分の何らかの資質や努力によることのように考え、自分が神の前で何か手柄を立てたかのような思い違いをしてはならない。自分がユダヤ人と比べてより立派な、優れた者であるかのように思って誇り、ユダヤ人を見下してはならない。そのようにパウロは戒めているのです。
私たちの陥る誇り
私たちは、ユダヤ人に対して誇ったり思い上がったりすることはありません。それは、私たちの周囲にはユダヤ人がいないからです。しかし私たちも、自分が信仰者となり、救いにあずかったことを、何か自分の手柄であるかのように思い、信仰をもって生きている自分が他の人々より立派な良い人であるかのように勘違いしてしまうことはあるのではないでしょうか。そして信じていない人を自分よりダメな人であるかのように上から目線で見てしまうことがあるのではないでしょうか。教会に来ているクリスチャンは決してそのようには思っていないのですが、周囲や世間はそういう目で見ていることはあります。教会は敷居が高いと。そして、そのことは、自分は信仰者なのに立派になれていない、と落ち込み、もっと頑張らなきゃと焦るとか、あるいは逆に「あの人あれでも信仰者?」と人のことを批判する、という形でも現れます。要するに信仰や救いが人に対する誇りや自負のネタとなってしまうのです。しかし間違えてはならないのです。信仰者である私たちは、自分の力で立っているのではありません。根に支えられているから立っていられるのです。20節には「あなたは信仰によって立っています」とあります。それは信仰というあなたの良い行いによって自分の足で立派な者として立っているということではなくて、神の恵みという根によってこそ支えられていることをあなたは信じている、神の恵みという根の支えがなくなれば、自分がたちまち倒れてしまことを知っている、ということです。だから、信仰によって立っている者は、思い上がるのではなくてむしろ恐れなければなりません。神を恐れることこそ、信仰による救いにあずかっている者のあるべき姿なのです。
神の慈しみと厳しさ
パウロは22節で「神の慈しみと厳しさを考えなさい」と言っています。神を恐れるとは、その厳しさのみを見つめることではなくて、その慈しみを見つめることでもあるのです。慈しみの方が厳しさよりむしろ先に語られています。神の慈しみを見つめ、同時にそこに厳しさをも見つめていく、それが神を恐れることです。慈しみだけで厳しさを見つめようとしない信仰は神への甘えに陥り、神を侮ることにつながるのです。また逆に、厳しさだけを見つめて慈しみを見ないということもあります。私たちはこのように、神の慈しみだけを見つめるか、厳しさだけを見つめるか、そのどちらかの間違いに陥りやすい者です。両方の間違いの間を行ったり来たりしているというのが現実かもしれません。しかし本当に神を恐れるというのは、神の慈しみと厳しさを一つのこととして見つめることなのです。
パウロは、ユダヤ人がつまずき、異邦人が救いにあずかっているという現在の事実に、この神の慈しみと厳しさが同時に現れている、と言っているのです。ユダヤ人がつまずいた、そこには、ご自分の民であっても、信じない枝は折り取られるという神の厳しさがあります。神は人間の甘えを何でもよしよしと認めて下さるような方ではないのです。しかし、慈しみに留まる限り、あなたに対しては慈しみがある。今キリストの救いにあずかっている異邦人たち、つまり私たちには、神の慈しみが注がれているのです。救いを得るためのただ一つの条件は、神が示し与えて下さっている慈しみの中に留まり続けることです。それが信仰なのです。
主に望みをおく人は
今朝共に読まれた旧約聖書の箇所は、イザヤ書第40章の終わりのところです。神の慈しみの下に留まることによってこそ力強く立つことができる、ということがここにも語られています。30節にはこうあります。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる」、若者や勇士は人一倍強い力を持っている人です。自分の足で立ち、元気に生きていけそうな人です。そのような者も倦み、疲れ、つまずき倒れていく、しかし主に望みを置く人は、即ち主なる神の慈しみに留まり、それを常に求めていく者は、主の慈しみによって新たな力を得、鷲のように翼を張って上ることができる、走っても弱ることなく、歩いても疲れない、そのように支えられ、生かされ、力づけられていくのです。パウロは、異邦人の信仰者たちに、また私たちに、このことをしっかりとわきまえさせようとしているのです。
神の慈しみを受け入れ、その下に留まるならば救いにあずかることができる。だから私たちは、自分自身が先ず、神の慈しみにしっかり留まって生きる者でありたいと思います。
お祈りします。